瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

大和田刑場跡(25)

・名和弓雄「沖田総司君の需めに応じ」(3)
 例によって細部に拘って何のことやら分らぬことになるだろうから、この名和氏の文章の要領を得たい人は、東屋梢風のブログ「新選組の本を読む ~誠の栞~」の、2015/11/04「名和弓雄『間違いだらけの時代劇』」の紹介を参照されたい。
 昨日は「名和コレクション捕物展」の開催時期を昭和40年代以降と見当を付け、そして森満喜子の著書が「すでに二冊」と云うところと昭和48年(1973)12月刊『沖田総司抄』に名和弓雄と村上孝介への謝辞がある、とのことから昭和47年(1972)11月刊から『沖田総司抄』の執筆を終えるまで、大体昭和48年(1973)の前半くらい、と見たのであったが、肝腎の短刀について、まだまるで触れていなかった。
 それでは一昨日の続きの本文を見て置こう。167頁2~7行め、

 拵も立派だし、刀身もなかなかよい出来である。さて、中心*1を抜いてみて驚いた。
 沖田総司君の需めに応じ、文久三年八月、京に於て、信濃国住人浮州之を鍛う……
 と、楷書体で美事な鏨*2で彫ってある。銘振りも立派である。
 しかし、残念ながら、筆者は信濃国に浮州なる新々刀の刀工がいることを知らない。
 浮州という名も号も、全く聞いたことも見たこともない。それに、刀身の肌や焼刃が信濃/路のものとはどうしても思えないのである。


 ただ、8行め「旅先であって、刀剣参考書も手許にないので」10行め「詳しいことは、東京に帰ってから、知らせましょう」と云うことにして、12行め「東京に帰って、さっそく調べてみ」たが、「浮の字の付く刀工は、たいへん古い時代に」13行め「一人いるだけで、新刀期、新々刀期には」14行め、1人も「いない」。
 15~16行め「大牟田で」は「短刀の鉄や肌から‥‥武州下原刀ではないか、とい/う疑い」を、15行め「直感し」ていた。17行め~168頁4行め、

‥‥が、浮州という刀工が実在の人でない/【167】ということになると、下原鍛冶を一応当たってみたい、と思った。
 下原の刀工について、専門的に研究している人は数人おられるが、その中で一番信頼して/いる研究家は村上孝介先生であった。
 筆者は、村上先生に、この短刀のことを、電話で問い合わせてみた。


 以下、電話口でのやりとりが5行め、村上「先生独特の、ズウズウ弁で、」再現されているが、聞き直しなどは端折って纏めてしまおう。
 村上氏は6~9行め「その短刀のことは、わたすも聞いております。」と云うのだが、森満喜子の短刀なのか、それとも別の浮州の短刀のことなのかが分りにくい。村上氏は「九州福岡の、お医者さんから話を聞きまし/た。」と言い、浮州*3「というのは、下原の刀工で、濤江介、」正近*4「と云う人の偽銘です。」と断定する。正近「はですね、近藤勇君のためにとか、土方歳三君のためにとか、銘を刻み浮州と銘を入れて/います」
 しかし、村上氏が複数見ているらしい「浮州」銘の刀は、ネット検索する限りでは全くヒットしないのである。
 正近の偽銘のことは、11月12日付(14)に見た村上孝介『刀工下原鍛冶』にも触れてあった。しかしそれは「於小比企 正近作/文久二年二月日 依近藤勇好」と云う銘で正近と名乗っている。昭和44年(1969)刊『刀工下原鍛冶』では、どうやら「浮州」なる銘には触れていないようだ。そうすると、村上氏はその後、この質問を受けたと思しき昭和48年(1973)までの間に、浮州についての知識と理解を深めたのか、或いは――『刀工下原鍛冶』の時点では慎重に判断を保留し、名和氏から「応需沖田総司君」の「浮州」の短刀の話を聞いて初めて確証を持った、と云うことになりそうだ*5。(以下続稿)

*1:ルビ「なかご 」。

*2:ルビ「たがね」。

*3:村上氏は「ふすう」と発音したことになっている。

*4:村上氏は「まさつか」と発音したことになっている。

*5:12月12日追記】村上氏の書名を誤っていたのを訂正。