松谷みよ子は執筆機会の多い著述家であったので、同じ主題で色々な媒体に何度も、同じ材料を繰り返し使って書くようなことになっております*1。
ただ、その繰り返しになるとき、紙幅の都合により繁簡精粗の違いが生じるだけなら良いのですが、5月22日付(07)に引用した紀州「洞尾の人」に聞いた天狗笑いの話のように、同じ『現代民話考Ⅰ 河童・天狗・神かくし』の、序説「天狗考」と「天狗笑い」本文とで、内容に出入りがあるのが困るのです。――文筆家であれば当然、同じことを書く際に全く同じように書かないように、あやを付けてしまう癖が身に付いているでしょう。確かに、ただ読むだけであれば繰り返しになっていない方が良いに決まっています。しかし、資料として使おうとする場合には少々厄介です。何となれば、その人の同じことを扱っている文章を全て集めて見ないことには、結局どうだったかを最終的に確定させられないからです。いや、幾ら集めても確定なぞ出来ないでしょうが、だからと云って1つ2つを見ただけで論じてしまう訳にも行かぬのですから*2。
従って、私は、出来る限りの材料を集めて検討したいと思っておるので、異稿程度の違いしかなくても一応は見て置きたい*3と思うのですが、一般向けの1冊の書籍に重複する内容を幾つも載せる訳には行きません。
ですから『松谷みよ子全エッセイ』全3巻にしても、標題通り全部のエッセイを収録している訳ではないのです。
『松谷みよ子全エッセイ』筑摩書房・四六判上製本
・1『わたしの暦』一九八九年二月二十日 第一刷発行・定価1700円・304頁
・『松谷みよ子の本 第10巻 エッセイ・全1冊』一九九六年五月二十五日・第一刷発行・講談社・761頁・上製本(20.0×14.8cm) 『松谷みよ子全エッセイ』の編集と『松谷みよ子の本』との関係については、本書の744~749頁、松谷みよ子「あとがき」から関連する記述を抜いて置きましょう。
まづ746頁6~9行め、
‥‥、一九八八年から八九年にかけて『松谷みよ子全エッ/セイ』を、三巻出してくださったのも中川美智子さんであった。私の家の引き出しいっぱい、年度別に袋に/入ったエッセイを、大きな手提げに入れては持ち帰り、それが何年越し*4であったか、遂*5には御自宅へ持ち帰/り、深夜選び構成する作業だったと聞く。‥‥
この辺り、上記『松谷みよ子全エッセイ1』の「あとがき」を簡略にしておりますが筑摩書房の編集者が自宅で深夜、とは『松谷みよ子全エッセイ1』ではしておりませんでした。引用しませんでしたが続く司修の装幀についての記述も詳しくなっております。なお『松谷みよ子全エッセイ』の刊行を「一九八八年」から、としていますが「一九八九年」の「二月」から「四月」に掛けて、消費税導入を挟んで毎月1冊ずつ刊行されております。或いは『松谷みよ子全エッセイ1』の「あとがき」の最後、304頁15行め「一九八八年十二月」付であったところからして、実は昭和63年(1988)12月刊行開始予定で、しかし昭和天皇の危篤が続いてと云った状況から先延ばしして翌平成元年(1989)2月からの刊行になったのを、当初の予定のつもりで回想してしまったのでしょうか。
746頁11~15行め、
‥‥。そして、この『全エッセイ』三巻があったとはいえ、中川さんがあんまり多くて外さざ/るを得なかったという分からも、また一九八九年以降の随筆を、まるごともう一度検討しなおし、今回の組/み立てをされたのは、恒人社の伊藤英治さんである。私との行きつ戻りつの検討の末、ここに至ったが、ど/んなに御苦労だったことかと感謝に堪えない。伊藤さんは今回のシリーズに一貫して関わっていただき、細/部まで詰めて戴いた。
しかし「中川さんがあんまり多くて外さざるを得なかったという分」すなわち『松谷みよ子全エッセイ』刊行前の発表で、『松谷みよ子全エッセイ』に入っていないのは4篇に過ぎません。その4篇はいづれも解説的な文章で、それぞれ外した理由が察せられるようなものばかりです。――『松谷みよ子の本10』96頁6行め~126頁「岩崎としゑさんのこと」は、松谷氏が出会った語り手について、松谷氏が纏めた岩崎氏個人の昔話・世間話集の解説とすべく執筆した評伝的文章で、エッセイではないけれども他の巻に収まらなかったのでここに仮置きしたような按配です。かつ、これを収録したことで本当にエッセイとして書かれた2篇、すなわち『松谷みよ子全エッセイ3』89~90頁「岩崎としゑさんのこと」と91~94頁「語り部考 ――岩崎さんのこと」が『松谷みよ子の本』では外されております。「坪田譲治著『せみと蓮の花』解説」と「さねとうあきら著『神かくしの八月』解説」の2篇は『松谷みよ子全エッセイ1』304頁10行め「 今回、ほとんど雑誌、新聞等に掲載されたものを集めたが、何点かは単行本より‥‥」と云う編集方針から外されたものでしょう。もう1篇は『庄野英二全集』第三巻の「月報」に寄せたエッセイで、これは『松谷みよ子全エッセイ』にも収録すべきだったかも知れません。
それはともかく『松谷みよ子の本10』の「組み立て」をした伊藤英治は『松谷みよ子の本』の「編集部」の中心人物で、『松谷みよ子の本 別巻 松谷みよ子研究資料』の編者として、7~157頁「「松谷みよ子の本」編集メモ」と159~516頁「松谷みよ子全著作目録」を纏めております。
『松谷みよ子の本10』の「あとがき」からは『松谷みよ子全エッセイ』から余り省いていないように感じられますが「「松谷みよ子の本」編集メモ」を見るに、121頁上段13行め~157頁下段「第10巻 エッセイ・全1冊」の121頁上段14行め~122頁下段9行め「1 巻構成」は、その大半を「第Ⅰ部:エッセイ」編集の説明に充てており、122頁上段21行め~下段3行め、
‥‥。『松谷みよ子の本第10巻』は、膨大な/【122上】文章を一冊にまとめなければなりません。しかし、残念/ながら紙幅の関係で民話に関する文章と著者の日常にふ/れた文章の多くを割愛せざるを得ない結果になりました。
とあって『松谷みよ子全エッセイ』にあって『松谷みよ子の本10』には再録されていない文章が多々あるであろうことが察せられるのです。「民話」と「日常」の「多くを割愛」したと云うのは、執筆機会が多くて繰り返し同じことについて書いていたからでしょう*6。いえ、既に選択が行われているはずの『松谷みよ子全エッセイ』にしてからが、繰り返しが多いと感じられるくらいなのですから、更に精選して松谷氏の著述の決定版となるべき『松谷みよ子の本』では、どうしても「割愛」せざるを得なくなるはずなのです。
しかし細かく確認するには数日懸りで『松谷みよ子全エッセイ』全3巻と『松谷みよ子の本10』そして「松谷みよ子全著作目録」とを比較検討する必要があります。今、そこまでする余裕はありませんので、松谷氏の著述を利用する際には、エッセイであれば上記3点を最低限でも参照する必要があることを指摘するに止めて置きます。
さて、ここまでつらつら『松谷みよ子全エッセイ』について述べたのは、『松谷みよ子全エッセイ』に収録されていて『松谷みよ子の本』に再録されていない文章に、上記「洞尾の人」の天狗の話が取り上げられているからで、この「民話に関する文章」はもちろん『松谷みよ子の本 第7巻 小説・評論・全1冊』の「第Ⅱ部:評論」の「現代民話考」に収録されている「天狗考」と重なっているから再録されなかったので、しかし私にとっては、この文章にしか見えない要素があるので、捨てては置けないのです。そして、やはり松谷氏の著述を扱うのは厄介だ、と思ったことでした。(以下続稿)
*1:別に批判している訳ではありません。当然そうなるだろうと云う事実を確認して置きたいのです。
*2:【追記】以前に書いたことを忘れて違うことを書いてしまう場合もあれば、当時関係者に遠慮して書かなかったことを所謂〝時効〟後にはっきり書く、と云うこともありましょう。さらに、曖昧な記憶を資料で補強して、下手をすると捻じ曲げて書いてしまう、と云うこともあります。その上、当事者であっても(スポーツでもリプレイ検証で判定が覆ってしまうように)全てが見えている訳ではないのですから、いよいよ厄介です。
*3:大概はどの程度の違いなのかも見ないことには分らないので、見ざるを得ない訳ですが。
*4:【11月13日追記】後述『松谷みよ子の本 別巻 松谷みよ子研究資料』の松谷みよ子「松谷みよ子年譜」558頁下段3行め~560頁上段4行め「一九八四(昭和59)年 五十八歳」条、559頁下段17~20行め「 十二月十五日、『あの世からのことづて 私の遠野物語』/(筑摩書房)を出版。これは「西日本新聞」に連載した五/十編に新たに十二編加えたもの。筑摩書房の橋本靖雄、中川美智子さんと出合う。」とあり、連載については上段4~6行め「 四月九日、草地勉氏の依頼で「西日本新聞」夕刊に/「私の遠野物語」の連載を開始する。六月二十一日まで、/全五十回。」と見えておりますから、中川氏が松谷家に出入りするようになったのは昭和59年(1984)以降、と云うことになります。
*5:ルビ「つい」。