①「ラジオ・テレビ局にまつわる笑いと怪談」(2)
昨日の続き。
②③の「あとがき」は続いて、②388頁9行め~390頁2行め③440頁11行め~442頁7行め、著書の利用を許可してくれた放送関係者や、取材に応じ、情報を提供してくれた人たちへの謝辞が連ねてありますが、①では57頁下段10行め~58頁下段13行め、放送局の「民話」を取り上げる意義を、58頁上段7~9行め「‥‥、私自身、一九五六年から劇団「太郎座」の/結成に加わり、以来十年間テレビ局に日参?するような生/活があった」その実感を踏まえて述べ、謝辞は下段19行め~59頁13行め(上段は挿絵)と短く、名前と著書が挙がっているのは59頁下段3~4行め「‥‥『放送よもやま話』(あずさ書房刊)を書かれたNH/Kの会長坂本朝一氏より、‥‥」だけになっております。坂本氏のことは②「あとがき」388頁10~11行め「‥‥。すでに故|人となられた坂本朝一前会長からは、‥‥」と見え、③440頁13行めでは「‥‥。とりわけ忘じ難いのは坂本朝一前会長から、‥‥」と改めてありますが「NHKの」が落ちております。坂本朝一(1917.3.28~2003.12.31)が日本放送協会(NHK)会長だったのは昭和51年(1976)9月から昭和57年(1982)7月までで、①の当時「会長」②の頃には「前会長」でしたが③の頃は「元会長」と書くべきだったでしょう。それ以上に驚かされるのは③刊行時にも存命だった坂本氏を②が「すでに故人となられた」としていることで、②の刊行時、横綱審議委員会の委員(1982.4~1999.1)を務めており後に委員長(1997.1~1999.1)まで務めております。ここは③ではなく②の増刷時に訂正したのではないでしょうか。[第二期]Ⅲではなく第8巻となっている②を探して見ることとしましょう*1。
①は稿末、109頁下段13~19行めに[参考資料]として『放送よもやま話』に加え、「『シャープさんフラットさん回想記』尾島勝敏著(芸術生活社)/『テレビ原人の昼休み』大山勝美著(冬樹社)/『ちょっといい話』戸板康二著(文芸春秋)/「ただいまテストのマイク中」(一九八〇年六月号『文芸春秋』より)/『続・丹波哲郎の死者の書 霊界旅行』(中央アート出版)」の5点を挙げておりますが、②③の「あとがき」に特筆してあるのは尾島氏と大山氏の著書のみで、①以後に入手した資料が少なくなかったこと、また、新たな取材も少なからず行ったらしいことが察せられるのです。尤も取材は①の段階でも行っており、58頁下段24行め~59頁下段2行め、特殊な業界の話なのでアンケートの回答が限られていたことを述べた上で、
というわけで元アナウンサー・現ディレクターなど、多/くの方々に当研究室、石崎敬子が聞書にうかがった。貴重/なお時間とお話を頂いたことに御礼を申し述べたい。
とあって「回答者・石崎敬子」となっている話は、松谷みよ子民話研究室スタッフとして取材に行った成果らしいのです。どうやら他の巻でも、松谷氏本人もしくは松谷みよ子民話研究室のスタッフが「回答者」となっている話には、「現代民話考」のための取材に拠るものが少なからず含まれているもののようです。
本文にはもちろん、松谷氏本人の回想もありますし、丁度『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』の編集が進められていた頃のことで、太郎座の関係者の回想、太郎座らしい人形劇の番組でのハプニング、それから瀬川拓男のことなども語られています。しかし普通に読んだ分には回答者が何者なのか、予備知識のない読者には分かりませんから、十分活用しづらいように思います。当時はこれが限界だったのでしょうけれども、関係者の多くが死去してしまった現在となっては、やはり註釈が必要でしょう。例えば、①の、当記事の最初に引いた箇所に該当する②③「あとがき」が、②389頁13行め③442頁1~2行め「‥‥。私も青春のある時期をテレビ局へ日参し\たひとりとして、‥‥」となっておるのですが、これなど本文をよく読んでも余所から仕入れた知識のない限り、松谷氏がどうして当時そこまでテレビ局に食い込んでいたのか、分からないでしょう。
太郎座のことは、①の前置きには先に引用した箇所に続いて、58頁上段10~16行め
つい先頃、劇団結成当時の思い出などを語りあう会をし/たら、白土三平氏がきてこんな話をした。パターンやら、/人形の作成に徹夜が続き、荷物をかついで国電に乗ったら/立ったまま眠ってしまい、衝撃に気がついたらひたいを床/に打ちつけていたという。ほんとに重労働だったよねと溜/息をついたことだった。いや今もそうだという声も出てし/んみりした。
とあったのですが、これは②③では本文の方に組み込まれていて「太郎座」のことは目立たないようにされております。②180頁2~6行め③207頁13行め~208頁2行め*2、
◯東京都。昭和三十二年頃。当時太郎座にいた白土三平氏は、テレビ出演のための、\パターンや|ら人形の作成に徹夜が続き、自動車などもない頃だったから荷物をかつ\いで国電に乗った。立|ったまま眠ってしまい、ガーン! 衝撃に気がついたらひた\いを床に打ちつけていた。よく命|があったものである。いや、今だって同じだと某\プロダクションの人が憮然としていった。
回答者・松谷みよ子(東京都在住)。
何故か『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』には名前ばかりが出て当人の回想記や証言のなかった白土氏が、太郎座を回顧する集まりには参加していたことが分かるのですが、この話は松谷氏の晩年に出た次の自伝にも見えております。気付いた序でに抜いて置きましょう。
・『自伝 じょうちゃん』二〇〇七年一一月三〇日 第一刷発行・定価1500円・朝日新聞社・253頁・四六判上製本
204~211頁「23 太郎座創立―民話採訪へ」の冒頭部、204頁2行め~205頁3行め、
東京都葛飾区金町での雑居生活が、私と瀬川の新婚生活だったが、結婚後、すぐに飛び込んで/きたのが、NHKの、たしかクリスマス番組だった。瀬川拓男作の「どじ丸物語」を動く絵ばな/しとして放映してほしいというのである。
朗読には全銀連北国闘争以来の友人、山村香代子さんと私があたり、パターンの絵や人形の制/作には、瀬川や白土三平、篠田立陽、私の兄の松谷春男も駆り出され、総力をあげての取り組み/だった。徹夜、徹夜の連続で、車もなく、パターンをかついでのスタジオ入りである。
あるとき、三平ちゃんの姿が現われずはらはらしたが、徹夜つづきのため、国電の中で立った/まま眠ってしまい、床にたたきつけられひたいを打って、ようやく目を覚ました、それでおくれ/【204】た、という一幕もあった。
幸いにしてこの番組は好評番組となった。劇団「太郎座」の名がテロップで画面に流れ、瀬川/が夢に描いていた「太郎座」の誕生が感慨深かった。
②③に昭和32年(1957)頃、とあるので劇団の草創期のことと理解していたのですが、こちらでは、太郎座の、本当に草創時の出来事として語られています。ここには白土三平フリークの「Takeda Kohtaro」の、台本の写真を掲出した、2020年12月26日2時22分の Tweet を引いて置きます。
語る民話が読むものになって久しい。高畑勲や宮崎駿にも影響を与えた劇団「太郎座」は、1955年にNHK放映の「どじ丸物語」をきっかけとして誕生。
— Takeda Kohtaro (@saihato) 2020年12月25日
美術を白土三平、主人公役を白土夫人、ナレーションを松谷みよ子と瀬川拓男が担当した。竜王の玉を手に入れたどじ丸は、出生の謎を解くために都へと向かう pic.twitter.com/HH0GadL3AV
しかし①では座談会で白土氏が語って、当時そんなこともあったのか、いや今もそうだ、と嘆息したことになっていたのが、②③では座談会と云う設定が曖昧になり、そしてここでは松谷氏本人の当時の回想のように書かれております。いえ、当時どうだったかの記憶を座談会での白土氏の話から捏造=「民話化」して、書いてしまっているような印象を受けます。
とにかく松谷氏は、同じことをきちんと詰めずに繰り返し書くので、その度ごとに微妙なズレが生じてしまうようです。なお『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』の「太郎座に参加した人々」には7人め(308頁上段7行め)に「白土三平(29―31) (美)」と見えております。
他にも①「ラジオ・テレビ局にまつわる笑いと怪談」の前置き、②③の「ラジオ・テレビ局の笑いと怪談考」及び「あとがき」に見える話で、①②③の本文や、前後の松谷氏の著述との比較を要する例が幾つもあります。それらは、完遂出来るかどうか分かりませんが、①と②の内容を詳細に比較する際に、改めて参照・検討することとしましょう。(以下続稿)
【7月16日追記】改めて『戦後人形劇史の証言/――太郎座の記録――』を眺めてみますと「2 太郎座前期 一九五四年――一九六〇年」78~80頁、各章の冒頭にある松谷氏による概要、この章は「金町四の三九における太郎座共同生活」と題されておりますが、79頁6~18行め、
曽根の紹介でNHKの伊達兼三郎氏と瀬川は出合う。/一九五五年十二月瀬川の台本で、「どじ丸」が動く絵話/として放映。太郎座をあげての制作、出演で、朗読や/科白には山村香代子、小林まゆみ、松谷らが当ったし、/操作には紙芝居作家の長老松井光義氏まで馳り出され、/ラストシーンには画面に手が出るなどという泣き笑いの/一幕もあった。何よりも美術制作班の労苦は目にあまる/ものがあった。黒布にくるんだパターンを持って国電で/スタジオ入りをする。徹夜つづきのため立ったまま眠/り、ひたいを電車の床にたたきつけて気がついたり、仲/間とはぐれて切符もなく金もなく困ったよとは白土三平/の回顧談である。幸に「どじ丸」は最好評番組となった。/「太郎座」創立の感慨があった。
と見えておりました。「曽根」は曽根喜一で瀬川拓男とは満洲の旧制中学の同級生、この辺りは「1 前 史 一九四七年――一九五三年」64~71頁、曽根喜一「戦後の出合いと人形劇運動」により背景を窺うことが出来ます。
なお、この白土氏の話が、常に松谷氏による引用の形で取り上げられていることについてですが、これは巻末の松谷みよ子「あ と が き」332頁18行め~333頁1行め、
とはいえ語ってくれた人は少なくない。座談会というかたちで集って下さった方々は各期にいる。しかし文章/にしないという約束であったため、その部分を編集部が掲載することにはためらいがあった。
とあって、手記やアンケートを寄せなかった白土氏の証言は、この非公開を前提とした座談会での発言を、松谷氏が引用すると云う形でしか公表出来なくなっているのだと腑に落ちました。しかし、もう40年以上前の座談会ですし、松谷氏の書くものはどうも毎度揺れががありますので、出来ればそのまま文字起こししたものを公開してもらいたいものです。
【8月23日追記】318頁中段~321頁上段「NHK出演番組」はまづ小学校低学年向けの理数系教育番組4つを挙げて318頁下段11行め「(以上レギュラー番組)」として、以後単発もしくは短期間の連続番組を列挙するが、その最初、12~15行めに、
一九五五年(S30)
12月28、29、「どじ丸物語」作、構成・/瀬川拓男。局・伊達兼三郎、望月、秋元/(動く絵話)
とあります。
*1:【9月16日追記】この課題は9月16日付(06)にて果たしました。
*2:異同は冒頭、②◯が③*、最初の行は1字下げ、次の行から2字下げだが詰めた。