瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(04)

・生き霊の怪――先生をしたう少女の生き霊(16〜39頁)
 さて、1話目です。
 まず「生き霊は悲運のしるし」との節があって、『雨月物語』の「菊花のちぎり」と、泉鏡花の「白鷺」を、守れそうにない会う約束を守るために自殺して「生き霊」となって現れた例として挙げています。しかしこれらは死んでから(絶命直後に)現れたのではないかと思うので、死の直前に親しい人に挨拶に来た、という、『遠野物語』などに類例の多い、確かに「生き霊」と呼ぶべき話*1とは違うように思うのですが、村松氏はこれら名作の系譜に連なるものとして、これから述べる内容を位置づけようとしている訳です。
 次の「しんまい先生と女生徒」からが本題です。以下「病気になったT子さん」「美しいふりそですがた」「死のまぎわに」「まぼろしか、生き霊か」と続いています。
 物語は主人公である「わたし」の語りで進行していきますが、私はこれはフィクションだろうと(以前にも書きましたが)思っています。ですから、厳密に言えば「わたし」=村松氏本人ではないので、区別して書くべきだと思うのです。
 ただ、この話に関しては状況証拠から虚構の可能性が高いんじゃないかと思っているだけで、完全に拵え事だという確証はありません。それに、村松氏は「わたし」を自身のこととして読まれることを予想して書いている訳で、ここでは取り敢えず「わたし」=村松氏という式を認めて、考えてみることとします。

 まず、この話の時期ですが、村松氏が21頁「ぼくはまだ、ことし大学を出たばかりで、」と挨拶していること、また20頁「その年は日本が大きな戦争をはじめた年で、……、毎日のように、中国大陸へ出征する兵隊さんのすがたを見かけました。」からして、昭和16年(1941)であることが分かります。日米開戦は12月8日ですから、まだ4月に新任の挨拶をした頃には「中国大陸」が主戦場だった訳です。これは本文27頁に「昭和十七年の一月三日。」と明示されることで、確実になります。
 1月7日付(2)に掲げた村松氏の略歴には記載がありませんが、昭和16年4月から、村松氏は文化学院の女子部に作文教師として勤務しています。この辺りのことは、(2)に参照文献として挙げて置いた『あぢさゐ供養頌』第四章「青春の血と慵斎山房」に書かれています。その時期は、同書第六章「柳暗花明への招待」に拠れば、同僚との確執から辞職した昭和17年3月まで、昭和16年度の1年間なのです。
 さて、本書には20頁「わたしは東京麹町の女学校の教師をしておりました」とありますが、実際は文化学院らしいのです。文化学院は現在も『あぢさゐ供養頌』第四章76頁に説明されている同じ場所、御茶ノ水駅の近くにありますが、本書20頁の写真「その当時の女学校」もやはり文化学院のように見えます。
 まだ、30年前のことで、差障りを恐れてぼやかしたのかも知れません*2

 年始の挨拶に来る約束をしていた村松氏ファンの女生徒「T子さん」が、新しい振袖を着てお正月、村松家に現れるのですが……幽霊だった、という話なのですが、確かに、村松氏は90頁に「なかなかの美男子」と自分で書いている(一応、登場人物の一人の発言なのですが)のも、巻末「著者紹介」の写真を見ると理解できるので、生徒の中にこのようなファンが現れたとしても無理もないように思われます。今では流石にないでしょうが、それこそ女学校の余韻の残る時期の女子高には、独身の男性教諭に卒業生の親からお見合いの申し込みがあったりしたそうです。インテリで堅い職業な訳ですから、親としても娘がその気であれば、ということなのでしょう。いえ、私は大学まで全て共学でしたが、それでも教師のファンで素行のおかしい娘というのは、いました。
 当時の村松家は、27頁「国電大塚駅の近くの高台にあり、」というのは、巻末の著者紹介にある住所と一致していて信憑性を高めていますが、続いて、村松氏と「母とお手つだいさんと三人でくらしていました」とあるのです。「母」も「お手つだいさん」も、振袖姿の女生徒の訪問に、村松氏をからかったりしてまんざらでもなさそうです。それはともかく、この「お手つだいさん」というのは、31頁「ねえや」とあって、若い人です。
 しかしながら、村松氏の『あぢさゐ供養頌』序章「麹町下六番町訪問」は、昭和13年(1938)7月の泉鏡花との対面について綴ったものですが、その冒頭部7頁に「先年死去した母」とあり、また鏡花との会話の中でも村松氏は11頁「いまの学校」つまり早稲田の、恐らく大学ではなく「附属第一高等学院」であろうと思われますが、11頁「いまの学校を受験いたしますとき、その頃は存命の母がお地蔵さまに願かけをいたしました」と言って、母への思い入れの強い鏡花を涙させています。さらに、同書第一章「『捐館記事』前後」に、昭和15年(1940)の正月の村松家を描写して27頁「年賀の客も、通いの婆やも帰ったあと、父子水いらずの盃を重ねるうち」とあります。
『わたしは幽霊を見た』では、後述するように「姉」がいたことになっています。この「姉」がここに登場しないのは、嫁入りしたからだと考えられましょうが、父のいない理由は分かりません。「お手つだいさん」が婆やでないのも、この物語は昭和17年(1942)の正月ですので、交替したのだとの説明は、一応は出来そうです。しかし、とにかく、当時の村松家の状況として、「母」がいる、という一点からしても、この辺りの記述は、虚構と判断せざるを得ません。
 一点が虚構なら全部が虚構だ、というつもりはありません。しかし、核になる出来事が仮にあったにせよ、かなり潤色されている、つまり、事実を忠実に書こうとしていないということは、これで指摘可能かと思います。
 この、事実を書いていないらしい、という疑いが強まるか弱まるかは、後に続く物語の検討を通して、浮かび上がってくるでしょう。

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 最後にこの物語の場合、「生き霊」か「死霊」か、というと、どうも死の直後に村松家に現れているらしいので、死霊というべきなのだと思います。ただ、「菊花の約」や「白鷺」とは、確かに全く同じ経過にはなっています。

*1:遠野物語』八七。八六と八八も死の直前のようです。

*2:当時は麹町区神田区とでしたが、今は麹町も神田も千代田区です。僅かにずらして見せたのではないでしょうか。【2022年1月13日追記文化学院は2014年に両国に移転、2018年に閉校したが、旧校地に「旧文化学院校舎入口」がそのまま保存されていて、往事を偲ぶことが出来る。