白川喜代次というのは実在の人物でした。1月18日付・19日付・20日付の3回に分けて『白川喜代次遺作集』を紹介してみましたが、村松氏はその編纂委員の末席に連なっています。『遺作集』には自殺のことは見えませんが、却って何の記述もないことが、その疑いを濃厚にします。
そこで当時の新聞記事を「自殺」で検索してみると「東京朝日新聞」昭和13年1月22日(土曜日)付第18602号11面12段目に次の記事がありました。
早大生自殺 廿一日午前/十一時頃世田谷區玉川奥澤町三ノ/九一六、九品佛境内で芝區白金志/田町五一電氣器具製造業白川彌助/氏二男早大文學部一年生喜代次(二/一)が服毒自殺を遂げてゐた、右手/に萬年筆、左手に“お父樣、お母/樣、喜代次はとても苦しくて生き/て行かれません、體も惡いやうで/す”と封筒の表に書いた遺書を持/つてゐた、同君は昨夏以來胸を患/ひ神經衰弱氣味であつた
確かに白川氏は服毒自殺を遂げたのでした。
しかし、この話は実話でないことは、もうお分かりでしょう。
村松氏は「昭和十二年の夏」と書いていました。しかし実際には翌昭和13年(1938)冬の、大寒の頃のことなのです。
白川氏の略歴を1月7日付(02)に紹介した村松氏の略歴と比較してみますと*1、
東京市立第一中学校入学 第一早稲田高等学院入学 早稲田大学入学
白川氏 昭和5年4月(4年修了) 昭和 9年4月 昭和12年(英文学科)
村松氏 昭和6年4月(4年修了) 昭和10年4月 昭和13年(国文学科)
となっていて、小学校入学・卒業ももちろんそうですが、白川氏は村松氏の一学年先輩なのです。村松氏の「中学のころからの級友で」或いは「中学を卒業すると、いっしょに同じ大学の文科に進み」は、事実と齟齬します。
先輩後輩で「たがいに、きよちゃん、さだちゃんとよびあうなか」というのも不審です。これは同級生ということにした上での、虚構の関係なのです。「かれは、だれにも、両親や兄弟にも遺書をのこしませんでした」(48頁)とありますが、新聞報道によれば両親に宛てた遺書を手にしていました。それはともかく、村松氏は「親友」の自分宛の遺書がなかったことが「心のこり」だ、と述べる(48頁)のですが、そこまでの関係とはちょっと思われません。同学年の北条誠(『遺作集』編纂委員の筆頭で、恐らく随筆「なみだ」に見える「親友H」)こそ、そのような対象だろうと思います。
村松氏は「白川くんのおそうしきに、わたしがふだんあまり着ようともしない白がすりで出かけた」(45頁)ことになっています。44頁には「その当時のわたし」という白絣姿の村松氏の写真まで掲載されています。そしてガラス窓に映った自分の姿を幽霊と誤認するのですが、それも「白川くんは、洋服よりもきものがすきで、夏になると、いつも白がすりのきものを着て」いたからなのです。冬のことを夏とした理由は、こういう訳なので、白川氏が白絣が好きだったのかどうかも、本当のところはどうだか分かりません。
さて、村松氏は「その後、いく夜となく、わたしはゆめで白川くんに出会いました」(45頁)として、やはり「白がすりを着」た「白川くん」が「まどのむこうからこっちを見つめている」夢を見た、というのですが、これは『白川喜代次遺作集』の随筆「夢」(1月20日付参照)にヒントを得たかと思われます。
これは知人M氏の話である。彼は當時、或る女と相思相愛の仲であつた。……(略)
……、何となく二人の仲が不味くなり別れたのが昨年の暮のこと、今は親からの命令に依る女と結婚した。ところが近頃になつて別れた女の夢を續けて四、五囘見たのださうだ。
「君それがあの女のいゝところばかりが目に付いてね。今思ふと滿更でも……ねえ。」
さう私にさゝやきながら、そつとM氏は奥さんのゐる茶の間に視線をやつたのである。
「心のこり」と夢、ということでは関連しそうですが、村松氏は夢をよく見る人だったらしい*2ので、関係ないかも知れません。
* * * * * * * * * *
以上で、白川氏関係のことは一旦切り上げます。
村松氏が『わたしは幽霊を見た』にフィクションながら白川氏のことを書き、フィクションだということに噛み付いて、こうして73年後に『遺作集』を紹介する者が現れた訳で、何だか村松氏の掌の上で踊らされている感なきにしも非ずですが、実は、今日1月21日が白川氏の命日なのです。私は因縁とやらを信じる者ではありませんが、偶然はあるものだと思っています。実際のところ、白川氏の活動がどれだけ評価できるものだか、判断出来る知識は私にはないのですが、概要を記してこの時代の学生演劇に興味ある方々の参考に供しようと思った次第です。