4月17日付の「岡山の高砂座」の話、「有名な話」だというが、ネット上では見当たらない。岡山の奇譚集を見れば載っているであろうか。
似たような話であれば、あちこちにあるようだ。これも動物関連の奇譚集を見ればもう集録されているかも知れない。桂米朝(1925.11.6生)演ずる三田純市(1923.12.22〜1994.9.1)の新作上方落語「まめだ」のマクラにも道頓堀の芝居の奈落に住む狸に触れるところがある。
差し当たり、大阪出身の作家直木三十三(のち三十五。1891.2.12〜1934.2.24)の随筆「怪談寄せ書」にこうした話に触れるところがあったので、紹介して置こう。直木三十五の著作目録は、川口則弘のHP「直木賞のすべて」の小研究/資料「直木三十五とは何者か?」(Last Update●[H13]2001/10/19)で、「復刻版『直木三十五全集』第21巻および別巻(平成3年/1991年7月・示人社刊)をもとに作成」されたものが閲覧出来るが、これは出ていない。すなわち、全集未収録である*1。
掲載誌は「新演藝」第九卷第八號(大正十三年八月)五四〜五八頁。この号には怪談の特集があるので雑誌そのものについても後日詳細に及ぶ予定。今回は差し当たり直木氏の随筆の紹介にとどめる。
まず「怪談寄せ書」と題があって、次の行(下部)に「直木三十三」その左やや小さい字で「幡 恒春畫」とある。五六〜五七頁の見開きが幡恒春(1883〜1944.4.17)*2の挿絵である。
怪談ももう少し何うにか成らないと型がきまりすぎて居る。中でも役者とか舞臺裏とかに纏つはる御化共に/甚だしく單調である。役者に棄てられて死んだ女が奈落に立つとか、鏡にうつるとか、さうでなければ狸がで/てくる位のものである。幽靈も外の所だと出沒自在、大いに人の膽を冷させるやうな筋をかく事もあるが、一/度芝居に關係してくると碌な出かたをしない。それに狸なんて奴は又化物の中でも 夥 しく氣の利かない代物/だから、せい%\利巧な所で、その日の芝居を眞夜中に演つてみせる位のものである。
この芝居をやる狸は今でも居る。高松市に八島座といふ小屋があるが、此處の奈落に住んで居る。奈落の薄/暗い所へ行くと、御狸樣の爲め竹の筒に花などさしてずらりと並べてある。餘りいゝ氣持ちがしない。狸より/もこの筒の方が餘程薄氣味が惡い。奈落怪談の發端として、この竹の筒など使つてるものである。今居るか何/うだか此小屋に番人がゐた。少し薄馬鹿だつたが、これが狸の友人で、よく鼻をつまゝれるし、狸が芝居して/居るのをよくみたと云つて居た。
以上が冒頭部分で狸の芝居に関連する部分(五四頁)である。続きは何か機会があれば紹介することにしたい。
役者や芝居に関する怪談が「甚だしく単調」だというのは、まさに港屋主人「劇塲怪談噺」を指したような指摘だが、私が引き合いに出した学校の怪談にしても、似たような単調な話がどこにでもある。しかし、そもそも伝説などというのがそういうものなのだから、オリジナリティを求めても仕方がないように思う。むしろ、似た話があちこちにあって、それが事実だと思われているらしいところに興味を持つ。
以下、ルビをまとめて示して置く。総ルビ(漢数字を除く)である。
くわいだん・すこ・ど・な・かた・ゐ・なか・やくしや・ぶたいうら・ま・おばけとも/はなは・たんてう・やくしや・す・し・をんな・ならく・た・かゞみ・たぬき/くらゐ・いうれい・ほか・ところ・しゆつぼつじざい・おほ・ひと・きも・ひや・すぢ・こと/たびしばゐ・くわんけい・ろく・で・たぬき・やつ・またばけもの・うち・おびたゞ・き・き・しろもの/りこう・ところ・ひ・しばゐ・まよなか・や・くらゐ
しばゐ・たぬき・いま・ゐ・たかまつし・しまざ・こや・ここ・ならく・す・ゐ・ならく・うす/くら・ところ・ゆ・おたぬきさま・た・たけ・つゝ・はな・なら・あま・きも・たぬき/つゝ・はう・よほどうすきみ・わる・ならくくわいだん・ほつたん・たけ・つゝ・つか・いまゐ・ど/このこや・ばんにん・すこ・うすばか・たぬき・ゆうじん・はな・たぬき・しばゐ/ゐ・い・ゐ