瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

港屋主人「劇塲怪談噺」(5)

 3題めの後半(4話め)。

 もう一つの部屋と云ふのは、/三階の大部屋の先の小さい部屋/で、これこそ不開の間と云つて/有名なものなんださうな、今で/はすつかり釘付にされてあるの/で入る事は出來ないが、もし入/つたならばそれこそうつかりし/てゐると一命に關るのだと云ふ/それは何者とも知れぬ者が、影/も形も見せずにいきなり咽喉を/絞るんださうだ。何と怖ろしい/話ではない。
 この他にも歌舞伎、明治、市村/それ%\にかうした噂を持つた/部屋が、あるさうであるが今は/詳細に知らない何れ後日續怪談/噺として書く事にする。それか/ら地方には隨分こんな話がある/さうだ。殊に有名なのは岡山の/高砂座で、芝居がはねると狸の/群が現れて、舞臺で芝居をする/のだとの事。しかもちやんと木/が入つて太鼓が鳴つて大仕掛で/始まると云ふ。これは如何にも/眉唾ものではあるが有名な話で/あるから筆を置く前に一寸記し/て置いた。


 歌舞伎座明治22年(1889)開場、44年(1911)に帝国劇場に対抗して改修。大正10年(1921)に漏電により焼失、再建工事中に関東大震災に遇う。
 明治座明治26年(1893)に改称、当時は松竹の傘下にあった。関東大震災で焼失。
 市村座明治25年(1892)に猿若町から下谷二長町に移転。「鈴鹿将軍」の異名を取った田村成義(1851〜1920.11.8)の経営で、六代目尾上菊五郎(1885.8.26〜1949.7.10)初代中村吉右衛門(1886.3.24〜1954.9.5)を擁し、一時代を築いていた。――いずれ、関東大震災で怪異ごと灰燼に帰した劇場の話なのであった。
 「岡山の高砂座」は、岡山市大雲寺町にあった。岡山市役所岡山市寫眞帖』(大正十五年五月)の二〇頁「雜事/(い)劇場寄席及び活動寫眞館、玉突場」に記述がある。今この町名は残っていないが、大雲寺交差点・岡山電気軌道清輝橋線大雲寺前駅、町名の由来になった大雲寺(日限のお地蔵さん)がある。地方の劇場の怪談は東雅夫編『文豪怪談傑作選・特別篇(ちくま文庫)』にも見えるが、他の文献に見えるものと合せて、そのうち総浚えをしてみたい。
 ルビと改段位置を挙げて置く。

 へや・い/がい・おほべや・さき・ちひ・へや(以上廿三頁4段目)/あかづ・ま・い/いうめい・いま/くぎづけ/はひ・こと・でき・はひ//めい・かゝは・い/なにもの・し・もの・かげ/かたち・み・のど/しめ・なん・おそ/はなし
 ほか・かぶき・めいぢ・いちむら/うはさ・も/へや・いま/しやうさい・し・いづ・ごじつぞくくわいだん/はなし・か・こと/ちはう・ずゐぶん・はなし/こと・いうめい・をかやま/たかさござ・しばゐ・たぬき/むれ・あらは・ぶたい・しばゐ/こと・き/はひ・たいこ・な・おほしかけ/はじ・い・いか/まゆつば・いうめい・はなし/ふで・お・まへ・ちよつとしる/お


 廿二頁4段目の行数が少ないのは真ん中8行分「舞臺藝術座/第一回試演會番組」が掲載されているからで、廿二頁5段目の最後には飯塚友一郎『歌舞伎狂言細見』*1の予約注文に関する短い記事がある。

*1:大正8年(1919)・歌舞伎新報社。『歌舞伎細見』(大正15年・第一書房)は訂正増補改版。