瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島悦次『傳説の誕生』(4)

 さて、本書9章め「傳説雪女」については、「あとがき」三二九頁3行めに「 同 「傳説雪女」      昭和 八・ 二・ 八(水) 後六・二五―六・五五」とあって、昭和8年(1933)2月8日水曜日の18時25分から55分に日本放送協会東京放送局JOAK)の第一放送「趣味講座「傳説雪女」」で話した草稿が元になっていることが分かる。当時、第一書房版『小泉八雲全集』もほぼ完結していたから、当然ハーンの「雪女」にも触れていて、次の1節を割いている。すなわち、一八一頁4行めに2行取り12字下げで「5」とあって、以下一八三頁8行めまでが「5」節である。その冒頭、一八一頁5~10行めに、

 さて、雪女を文學化した人に明治時代の小泉八雲がある。この人は本名ラフカヂオ、ヘルン/(Lafcadio Hearn)といつて、アイルランド人を父に持ち、ギリシヤ人を母に持つた人で、日本/に歸化して、小泉八雲を名のつたといふ人であること今更いふ迄もないが、その人の「怪談」(K/waidan)といふ書物の中に雪女(Yuki-Onna)といふのがある。この話は、その序文によると、/もとの東京府西多摩郡調布村の農夫から聞いた話として雪女の傳説の大分發展した形を見せてゐ/る。その大體の筋は、

として、以下11行め~一八二頁13行めまで、15行にわたって梗概を紹介、末尾(一八二頁12~13行め)に「‥‥。(小泉八雲全/集卷一)」とある。
 当時、小泉八雲の名はそこそこ知られていても、10月29日付「白馬岳の雪女(072)」前後に見た遠田勝『〈転生〉する物語』の「第一部 旅するモチーフ」=「小泉八雲と日本の民話――「雪女」を中心に」の「三 怪談作家ハーンの誕生」の章に児童文学書と教科書を手懸りにして述べているように、ハーンが怪談作家として認識されるようになったのは戦後のことらしく、従って『怪談』及び「雪女」の知名度はそれほどでもなかったらしく、それだけにこの梗概はなかなかに詳しい。放送時にここまで詳しかったかどうかは分からないけれども。
 そして一八三頁1~8行め、

といふのである。先年(昭和七年)の暮、讀賣新聞(十二月十三・十四日)に白石實三氏が「武藏/野から大東京へ」といふ實話ロマンスの中に、雪女の事が二日ほどつゞいてゐたやうであるが、/この話は少々異同はあるが、八雲の取材した傳説と同一のものであらう。そしてその方では子供/も三人生れたといふことになつてゐるが、このやうな傳へもあるものと見える。この武藏國の雪/女はかなりに文學的な發展をとげてゐるやうに思はれる。子供を生んだといふのは、或る女性の精/が人間と或る條件の下に結婚して子供まで出來たのが、男もその初めの約束を破つたために、女/はもとの仙界へ歸つてしまふといふ世界的に分布されてゐる所謂メルシナ型(Melusina-type)と/いはれる話の形式が取り入れられてゐるやうに思はれる。


 ここにメリュジーヌを持ち出す辺り、戦前、國學院大學に1回しか設けられなかった松村武雄(1883.8.23~1969.9.25)の「比較神話学」の講義を聴講した中島氏らしい発想と云うべきであろうか。メリュジーヌの伝説については1990年代に何冊か翻訳が出ている。

 なお、大学卒業までの経歴(病歴)を略述した、中島悦次「卒論の遠い思い出」(「国文学科報」3~4頁下段2行め、昭和48年3月・跡見学園女子大学国文学科)には、3頁上段22行め~下段1行め、

‥‥、/日本画家だった父は私が大学に入った翌年(大正十年)の一月に数/【3上】え年四十八歳で急逝したので、‥‥

とあるので本書「あとがき」の記述が誤り、と云うか誤植であることが分かる。すなわち「大正十一・十二・歿」は「大正十・一・十二歿」ではないかと思うのだが、差当り11月2日付(1)に「1月」歿と補って置こう。
 さて、ここに云う「実話ロマンス」の「実話」は、どこまでも真実の話と云うのではなくて、東雅夫の云う「怪談実話」の「実話」と同じ、実在の場所や実際にあった事件、実在の人物などにまつわる話をベースに潤色した読物、と云った按配であろうか。どうも私はこの「実話」に慣れない。そう云う読物に親しまなかったためかも知れないが、やはり「実話」と云うからには事実談であるべきだろう、と思ってしまうのである。
 それはともかく、中島氏は約2ヶ月後に、昭和7年(1932)12月13日・14日の「讀賣新聞」に掲載された白石実三「武蔵野から大東京へ」の「雪をんな」を、ラジオ放送「趣味講座」の話題として取り上げたのである。(以下続稿)