瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

岩本由輝『もう一つの遠野物語』(4)

 追補箇所、〔付録〕の〔追補〕と、「〔追補版〕あとがき」について確認して行こう。
 まず「〔付録〕 柳田國男国際聯盟常設委任統治委員関係資料六点」の「〔二〕 〔大正十一年〕八月十三日付、山川条約局長宛書信(外務省外交史料館所蔵)」(203頁〜211頁上段)の末尾に追補版では「⇨二四三頁〔追補〕参照」の1行が追加されている。初版では242頁で〔付録〕は終わっていて、243頁から「『遠野物語』から省かれたもの―むすびにかえて」となっていたが、追補版では〔付録〕は252頁までで、243頁からの10頁が「〔追補〕」である。冒頭に「二一一頁上段の〔二〕 〔大正十一年〕八月十三日付、山川条約局長宛書信に続くものとして、つぎの三つの書信を資料として補なう。」とあって、以下、いずれも(外務省外交史料館所蔵)の、〔二〕(2) 〔大正十一年〕九月二十一日付、(3)〔大正十一年〕九月二十二日付、(4)〔大正十二年〕八月十四日付、の3通の山川条約局長*1宛書信が収録されている。この〔追補〕により、もともとの〔二〕は〔二〕(1)と改め、そして別に日付を省いて「〔二〕山川条約局長宛書信(外務省外交史料館所蔵)」と立てるべきであるが、そのような改変は為されていない。
 〔付録〕については、237〜242頁に「〔付録〕解説」があり、また「『遠野物語』から省かれたもの―むすびにかえて」の初版260頁(追補版270頁)12〜16行目に「これまで経歴としては知られていても、具体的にはほとんど空白であったこの時期の柳田を知るには不可欠」とその意義が述べられているが、『もう一つの遠野物語』という標題とは無関係である。本文では「第四部 『遠野物語』と柳田学/二、山人から常民へ―柳田学の発展/(3)常民概念の展開」のうち、184頁7行目〜185頁4行目の段落で「常民を階層概念として確立して行く場合において、国際聯盟常設委任統治委員会委員をつとめたことが大いにかかわっているように思える」として、柳田氏が第3回常設委任統治委員会(1923.7.20〜8.10)で行った報告「委任統治領における原住民の福祉と発展」に言及しているくらいである。この議事録の翻訳(岩本氏訳)は〔付録〕の216頁下段〜231頁上段に〔四〕として収録されている*2。この〔四〕の末尾に(追 記)として、「再校終了後、柳田が、一九二三(大正一二)年八月一四日付で山川端夫にあてた書簡において、」としてその一節を引用、「と述べていることを知った(海野芳郎『国際聯盟と日本』原書房、一九七二年二月)。」とある。この書簡は〔追補〕の〔二〕(4)だが、引用箇所は251頁下段20行目〜252頁上段4行目に見える。若干異同がある。
 この海野氏の本に気付いたことで〔追補〕を考えたのであろう*3
 〔付録〕の〔追補〕については、「〔追補版〕あとがき」の後半(274頁4行目以下)に収録意図の説明がある。要するに「柳田が国際聯盟常設委任統治委員の辞任を思い立った時期」を本人が『故郷七十年』に「関東大震災を契機としたようにいっている」*4のだが、実はこれらの書簡に辞意が表明されていた、という、やはり標題とは無関係の新事実の発掘によるものであった。
 この「一九九三年一〇月二八日」付の「〔追補版〕あとがき」の前半(274頁3行目迄)は、標題に関わる“サムトの婆”についての、初版での見解の修正である。(以下続稿)

*1:山川端夫(1873.12.15〜1962.3.2)。大正9年(1920)4月臨時平和条約事務局第一部長となり、9月から外務省条約局長を兼ねていた。

*2:「〔付録〕解説」によると初出は「磐城民俗」第22号(1981年4月)。

*3:海野氏の本を見ていないので、海野氏に大正12年8月14日付書簡以外にも言及・引用があるのかは不明。見る機会があれば補うこととしたい。

*4:本文185頁5行目にも「関東大震災の報を知った柳田は委員の職を辞して帰国し」としていた。