瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(5)

 細々したものを挙げて置きます。人によっては許容範囲かも知れません。この他、若干保留しています。

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・16頁8行め「万物の森羅万象」→「森羅万象」だけで良い。
・25頁5〜6行め「六十なかば」は「六十歳代半ば」もしくは「六十半ば」でしょう。
・31頁、第2章「父のすべてを忘れない」の扉キャプション、「『岳全集』より」→「『岳全集』より」。
・43頁14行め「大正十五年秋ヨ里」の「」に(ママ)を附しているが、この「」は平仮名「り」の変体仮名で活字化する際には「り」としてしまって構いません。「」は片仮名ですが、これも古典の翻刻に際しては、特に片仮名で書こうという筆者の意識が認められない場合、平仮名に直してしまっても構わないことになっていたはずです。かつて「ハ」「ミ」「ニ」を律儀に版本(写本)の字体通り片仮名で活字化している古典の叢書がいくつかありましたが、今はそのような処理は行っていないはずです。まぁ雰囲気は出ますが。しかし「ヨ里」なら読めるので良いのですが、これが「尓」が字母の「に」だったり「者」が字母の「は」だったらどうでしょう。読めません。やはり「より」と処理して置くのが良いと思うのです。
・49頁4行め「奥」は刊本について言うので写本の場合は「奥」です。
・62頁5行め「街を南西に横ぎる」とありますが、普通「東西」で「南西に横切る」とは言わないでしょう。浅草と上野の位置関係からしても「東西」で何の問題もないと思われます。
・65頁13行め「大正期に熟んだモダニズム」とありますが、作物(果物)以外に「うんだ」は使わないのではないでしょうか。「熟した」とすべきでしょう。
・94頁14行め「鈴木は藤牧の技術にだいぶ興味をいだいていたとみて、」は「みえて」。
・151頁6行めときがあった」→「ことがあった」
・157頁5行め「(のち銀座六丁目のビルに移転)」と注記していますが、それまでどこにあったか書いていないのでこの注記は浮いています。すなわち156頁18「彼が開いた「現代画廊」」を「彼が西銀座に開いた「現代画廊」」とでもして置かないと、移転先を注記する意味がありません。ちなみに、移転先のビルのことは既に146頁6行めに「銀座六丁目の松坂屋の裏手に、戦前に建てられた五階建てのビルがあった」と見えていますが、ネット上には現代画廊が入っていたことを知らない人たちが、この「銀緑館」を解体寸前のレトロ建築ということで訪ねた写真入りのブログ記事がいくつか見えます。
・162頁18行め「千葉県小湊町(現鴨川市)の清澄寺」は「千葉県天津町(現鴨川市)の清澄寺」。288頁17行めには「千葉県鴨川にある清澄寺」と出ています。洲之内氏の連載時は「天津小湊町」でした。ちなみに、もとの「小湊町」にあるのは日蓮の生誕地に建立された誕生寺です。
・178頁8〜10行めに、

 インタビューの十日のち洲之内徹脳梗塞でぱたりと倒れる。彼は、一週間ほどこちらと/彼岸とのあいだをさまよい、十月二十八日に向こう岸のかなたにふつりと消えてしまったの/だ。

とありますが、インタビューが行われた時期は174頁16〜18行めに、

……。昭和六十二(一九八七)年の十月十八日にまず末松、翌十九日には長谷川と、立て/つづけに面会をはたす。神経をつかう連日のインタビューは、節々にガタがきていた七十四歳/の体には、こたえる仕事であったはずだ。

とあり、続いて175〜177頁に長谷川氏へのインタビューの「もよう」が紹介されているのですが、インタビューは昭和62年10月18・19日ですからその「十日のち」では死んだ日になってしまいます。HP「洲之内徹資料室」「洲之内徹略年譜」に拠れば倒れたのは22日ですから、「一週間ほど」の方は合っています。従って「インタビューの十日のち」は「インタビューの三日後」とするべきでしょう。(以下続稿)