瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(6)

昨日の続き。

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・197頁10行め「いたる部分」はネット上には散見されますが、普通は「いたるところ」なのではないでしょうか。
・215頁17〜18行め「壊れやすく、いなしやすいのだ。」――文脈から何となく意味は分かりますが、相撲など、相手の攻めをかわすのならともかく、この文脈で「いなす」とは言わないでしょう。
・220頁12〜13行めにはこうあります。

 小画面のなかほどにぽっかりと浮かぶ下弦の半月/に、あわせて六色が折りあう構成は、彼の作品のなかでももっとも難解なつくりからなっていた。……


 読んで分かる文章ではあるのですが、何だかおかしい、という箇所が本書では少なくない気がします。まず「折りあう」とは言わないと思います。じゃあ何と書けば良いのか、と言われると困るのですが「織りなす」でしょうか。それとも「重なり合う」か。次に「からなる」ですが、確かに「〜で出来ている」という意味の用法もあるようですが、例えば「この作品は六色の版から成る」のような、「(複数のもの)から成る」という使い方が普通だと思います。「もっとも難解なつくりとなっていた。」で良いのではないでしょうか。いえ、もちろん読んで分かるので、そのままでも構わないのかも知れませんが。
・242頁18行め「『三岳全集』『三岳画集』に眼を通していただければわかるが」――どうやって? 複製本が出ている? ならば参考文献を示して欲しいものです。それとも東京都現代美術館に行けばマイクロフィルムか紙焼写真本が閲覧出来る? ならば、その方法も示すべきです。恐らく読者の大半にとって「いただければ」と言われても無理な注文で、ここは「眼を通せばわかる」として置けば良いのではないでしょうか。言葉の綾でこう書いてしまっただけかも知れませんが、ここまでの『三岳全集』『三岳画集』の紹介で十分伝わっていますし、この2つを熟読したという駒村氏がこうだ、と言えばそれで良いはずです。
【追記】 espritlibreのブログ「玉乗りする猫の秘かな愉しみ」の2011年7月27日付「「生誕100年 藤牧義夫展」は画期的展覧会だ」によると、現在開かれている展覧会の会場で、『パソコンの画面で三岳全集』『三岳画集』が閲覧出来るそうです(記事の最後の方)。じっくり見られるような状態ではないとのことですが、何となく感じはつかめるかも知れません。
・271頁2行め「誤字までもを」は「をも」。
・272頁17〜18行めの長谷川氏の手紙の引用、

千疋屋から赤い寺柿を貰た、藤牧さんはキレイですね 食ふのがもつたいない ホツテ/ミタイ 飾つておきたい私は食ふ対象外何者もない、静物への美! 先生は中庸

とありますが、「貰た」のところ促音「」の処理が他と不統一なのはともかく、鍵括弧が変です(最初、太字にしたのですが読みにくいのでにしてみました)。これなどは編集がチェックした際、機械的に最初と最後だけ『 』二重鍵括弧にして、真ん中で切れているのを見落としたのでしょう。ちなみに私は『 』に書名を示すという役割がある以上、「「 」」括弧の中にある引用(台詞)を「『 』」二重鍵括弧にするのはどうか、と思っています。これも何かの折に孫引きしたいと思ったとき、こういう改変が加えられていると原文がどうなっていたか、復元出来ないのが嫌だからなのですが。(以下続稿)