瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(7)

 一昨日からの続き。

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・275頁2行め「いたゞ度ふ」は「いたゞ」とあるべきですから、2箇所(ママ)を附すべきです。前者「」は藤牧氏の誤脱でしょうが念のため現物で確認したいものです、(ママ)がないと駒村氏の見落としという可能性も考えなくてはいけないので。後者は形容詞型活用の願望の助動詞「たい」(古語では「たし」)の連用形「たく」のウ音便「た」です。尤も後者、本書に引かれている藤牧氏の他の書簡類を見る(286頁1行め)に、「う」を「ふ」と書いてしまうのは藤牧氏の書き癖らしいので、一々(ママ)を附さずとも良いかも知れません。
【追記】現在開かれている展覧会の「図録がわり」の公式ガイドブックには、Amazonレビュー(2011/8/2)に拠れば藤牧氏の写真(本書の中にもたびたび言及されるのに最後に1つしか掲載されていないのが、権利の関係もあるのかも知れませんが、不満でした)や書簡類も収録されているとのことで、館林展に行くことは半ば諦めていますが、鎌倉展までに図録を見て、会場では展示されている現物と読み合わせたいと思っています。
・284頁10行め「そういうたぐいの誤謬」とありますが、このような自身が捏造した事実との相違は「誤謬」とは言わないのではないでしょうか。
・296頁8行め「新井作」は、288頁9など他のところは全て「新井作」。
・298頁6行め、この「プロペラ機の淡彩画」は、この頁の右上に「《飛行機》 淡彩画」とのキャプションを附して掲載されていますが、これは246頁14行めの「飛びたたんとするプロペラ機」と同じものでしょうか。274頁3行めの「プロペラ機の絵」も、同じものでしょうか。
・301頁6行め「一」は10行めと同じく「一」。
・302頁12行め「六月二十五日から二十六日、新版画の主宰により」藤牧氏の個展が開かれた、とあります。この個展のことには242頁以下に触れてあって、244頁に「このときの個展目録」に描かれた、藤牧氏によって「会期中に、会場でなされたスケッチ」とされる《小野氏の像》が掲載されているのですが、「小野氏の像 昭和十年六月廿七日」「於 東京堂 藤牧義夫個展」との書込みがあります。このスケッチは、実は大谷氏により偽作と判定されている(244〜250頁)のですが、偽作者が事情に通じているとしたら日付を間違えるとは思えません。「二十六日」までで正しければ、日付の誤りを注意して置くべきですし、「廿七日」にも開催されていたのだとすれば「二十六日」が誤りです。
・307頁15〜16行め「だが、知る人ぞしる《浮絵 三囲之図》は、けっして名画として名高いわけではなかった。そういう絵を、……」とありますが、「知る人ぞ知る」に、価値が理解出来る人(知る人)は知っているが一般には知られていない、という含みがあるので「けっして」以下がくどい。「だが、知る人ぞ知る名画である《浮絵 三囲之図》を、……」で十分*1。ですが、今やこれでは上手く伝わらないのかも知れません。ちなみに「浮絵」について何も触れていないのが気になります。江戸時代に於ける遠近法の受容という問題に絡んで、豊春はその方面の「知る人(研究者)」に評価されたのですから。そして、この洋風画法の受容という研究課題には、後に小野氏も絡んで来ます。
・309頁10行め日蓮宗聖典法華教」」とありますが『法華経』でしょう。「〜教」だと「イスラム教」とか「天理教」などの宗教・宗派を指すはずです。12行め及び167頁5行め・310頁3行めには鍵括弧なしで「法華教」としてありますが、何か特別な理由があるのでしょうか。
・318頁11行め「でてこう」→「でてこう」と書くべきでしょう。ここは意味からして「出て行け」を「出てけ」と言うのと同じ、複合動詞「出て行く」の「行」が省略された形で、未然形「出て(行)こ」に意志の助動詞「う」が接続している訳ですが、この言い方はやはり口語的過ぎるのではないでしょうか*2
・328頁10行め「激しい言葉で一蹴した」とありますが、「一蹴」とは337頁8行めのように、相手にせずにはねつける、という意味ですから飯野氏が相手であるこの場合、合っていません。
・343頁18行め「ぶりかえした」は病気など悪いことについて言うので、このような用法には違和感。

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 まだ若干残っていますが、取り敢えずこのくらいにして置きます。と言うのも、誰が見てもおかしいところ、と断りながら、読んで意味は通じる言い回しが大半になってしまったからです。これらは、訳が分からないというようなミスはないので、スルーされたのでしょうし、読み通すには問題はありません。もう少し吟味してメモから取捨して、どうしても訂正をお願いしたい箇所だけに絞るべきだったかと反省しています。念のため繰り返しますが、本の主題に対する異論はありません。私の勇み足、逆に見落としもあるかも知れません。
 しかし、若い頃ならともかく、この年になるとこういうことは余り気分が良くないですね。だから放置して良いとは思わないのですが。言い回しなどは敢えて「文学的」に意図した表現もあるかも知れません。が、こういうことをさせないような形で出して欲しい、そのためには、そういうことを得手とする者に校閲を頼む、という一手間を掛けるだけでかなり改善されると思うのですが。
 それから、忘れた頃に再び出てくる人が多いので人名索引、それから「プロペラ機の絵」のように、同じ絵らしきものがそれと断らずに3度出て来たりしますので作品名索引・書名索引などを作成しようと考えていたのですが、止しにして、最後に1点、解釈について述べて終わりにしたいと思います。(以下続稿)

*1:しかし「名画」には名の知られている、という含みがあるので不適切か。「名画である」は要らないですね。そうすると今の読者にはいよいよ不親切か。言葉はなかなか難しいものです。

*2:意味もズレますので可能性はないのですが、複合動詞「出て来る」の未然形「出て来(こ)」に接続する意志の助動詞は「う」ではなく「よう」です。やはり文章語として「出てこう」はないだろうと思います。