瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

駒村吉重『君は隅田川に消えたのか』(12)

 随分回り道をしてしまいましたが、ようやく8月15日付(08)に一旦上げて削除したものの修正稿を上げます。
 姉の太田みさをの家が、向島區吾嬬町のどの辺りだったのか、正確に分からないのですが、駒村氏が藤牧氏の下宿からの距離を「三キロほど」としていること、それから藤牧氏に「請地の夜」という作品があるところからして、東武伊勢崎線の請地駅の近くだったかと思います。
 失踪当日、藤牧氏はこの姉の家から、浅草區小島町の姉・中村ていの家に向かったのですが、駒村氏は、その途中「友人」宅に「ちょっと立ちよった」と推測しています(319頁)。確かに「友人」宅に最寄りの東武伊勢崎線業平橋駅は、請地駅からは1駅で1キロもありませんから、電車には乗らずに歩いたのかも知れません。
 ここで問題になるのが「友人」の回想です。「友人」によれば、失踪当日、藤牧氏は「浅草の部屋を引きはらった」と言って「大きな風呂敷包みを二つ」持ってやってきた、という(317/263頁)のですが、太田家ではそのような事情を認識していなかったことから、駒村氏は「藤牧は姉には事情をひた隠し、下宿にいったん戻って荷物をまとめたとは考えられまいか」との可能性(318頁)を検討します。そこで7月25日付(02)で考察した天候が持ち出され、駒村氏は「それなりの強い降り方だったはず」の雨の中「往復すれば六キロちかい道のり」を「ずぶ濡れ」になりながら「神吉町の自宅から運んだのなら、死してなお残したかった命よりたいせつな作品群を、むざむざ雨にさらすようなものではないか」と述べて(318〜319頁)、雨の中、歩いて往復したとは思えないから、そんなことは有り得ないだろう、という判断をしているように読めます。
 ここが気になるのです。――くどいようですが「友人」宅は東武伊勢崎線業平橋駅のすぐ近くで、藤牧氏の下宿も東京地下鉄道(現、東京地下鉄銀座線)稲荷町駅の近く(303頁)でしたから、浅草で電車・地下鉄を乗り継げば、殆ど濡れずに往復出来たはずです。
 いえ、市電なら1本で移動出来るのです。市電の業平橋停留所から稲荷町停留所までは「ぽこぺん都電館」「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」によれば34系統です(都電廃止前には24系統として運転)。「友人」宅から市電の業平橋停留所までは200m、藤牧氏の下宿から稲荷町停留所までは300mほどです。常識的に、市電を利用したと考えるべきでしょう。そうでなければ「ずぶ濡れ」になって何本もの電車に追い抜かれながら歩いたことになってしまいます。雨も実は大した降り方ではなく(7月25日付(02)参照)、交通機関を利用したはずですから、やはり「藤牧自身がずぶ濡れだったはず」(319頁)はないのですが。
 もちろんこの「友人」の回想はおかしいので、この「往復」説は駒村氏も成り立たないことが分かっていて、駄目元で念のため辻褄合せをしたまでの、もともと無理のある記述なのですから、突っ込んでも仕方がないような気もします。しかしそうだとしても、いえ、そうだからこそ、雨や距離を根拠に「往復」説を否定することは出来ないことは指摘して置かなくてはなりません。不自然ではありますが不可能ではありません。ただでさえ矛盾する「友人」の説明を、このような説得力のない仮定と根拠で否定してはいけないので、ここはもっと「友人」の言説そのものに切り込んで否定するべきなのではないでしょうか。
 ここのところを、歩いた、という前提で組み立ててしまっているのは、本書が否定したはずの「友人」が捏造した「自分の口に入れるものすら満足でなかった」ほどの貧困、という「虚像」の藤牧氏に、つられてしまっていると言わざるを得ないと思います。――いえ、実際には「虚像」云々ではなく、地図を見てルートを確認する、という手順を欠いたために、このような書き方になってしまっただけかも知れません。そこでしつこいようですが、本書の、交通機関の利用、という視点の欠如について、藤牧氏が上京して来たときの記述に遡って指摘してみました。尤も、偉そうなことは言えません、私も最初、地図を脇に置かずに電車の中で読んでいたときには、この点はスルーしていたのですから……。(以下続稿)