一昨日、8月16日付(09)にて、市電で新大橋を渡って、……と、うっかり書いてしまったのですが、藤牧氏の目的地である「日本橋區濱町二ノ十一」は、森下町から新大橋線、ではなく、その手前の亀沢町で、参考にさせてもらっているサイト「ぽこぺん都電館」の「昭和3年3月現在 東京市電運転系統」であれば17・37・38系統のいずれかに乗り換え、両国橋を渡ってすぐの両国で39系統(浜町線)に乗り換え、浜町河岸を経て久松町停留所で下車した方が早いことに、今更ながら気付きました。重ね重ね申し訳ない次第です。
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さて、本書では隅田川沿いを南下して来た藤牧氏が、「深川方面」から「新大橋」を渡って「右手」、つまり北にある「浜町公園」の「北側の一角」日本橋區濱町二ノ十一の「白露会」佐々木倉太邸に到達したことにしています(53頁12行め〜54頁3行め)。しかしながら、両国橋から新大橋までの左岸(東岸・深川側)は、川沿いに道がありません。両国橋を渡った右岸(西岸)であれば、川沿いに道が浜町公園の脇から新大橋を経てさらに200m程先まで、続いています。佐々木邸は川沿いではなく、川からは直線距離で300m程離れています。このルートを取ったとしても、どこかのポイントで川から離れて内陸に入らないといけないのですが、両国橋を渡ったら市電(浜町線)に沿って川沿いに南へ500m、市電が川から離れたらそのまま内陸に入って市電の久松町停留所まで歩け、というふうに指示して置けば、その、川から離れて内陸に入るタイミング(現在の、中央区日本橋浜町一丁目と二丁目の境界の通りです)も迷いようがないのです。
しかし、無理に歩かせる設定にせずとも、市電に乗せれば良い、と思うのです。俄勉強で私も地図と路線で迷走してしまいましたが、浅草駅(現、業平橋駅)から日本橋区浜町二丁目11まで移動させる場合、浅草駅前から市電を乗り継いで久松町まで来させる、というのが一番ありそうなルートだと思います。市電は歩くときの目標にもなるでしょうが、歩くうちに何本の電車に抜かれることでしょうか。――ノンフィクションで、本題に関わらないところがはっきりしない場合、主人公が取ったであろう行動を考えて空白を埋めても良いと思うのです(本題以外のところまで慎重にされたのでは、ひたすら瑣末な考証に付き合わされたり、或いは空白だらけになってしまいますから、読めたものではありません)が、その際、最も無難な、蓋然性の高い可能性を採るべきでしょう。「J」の字型に回り込むように歩いたことになっている本書のルートは無理が多く、主人公を《隅田川》という主題に無理に絡めようとして歩かせているような印象を受けてしまうのです。
それから本書は、この辺りの方角もどうもおかしくて、日本橋區濱町二ノ十一を、浜町「公園の北側の一角」としているのですが、地図資料編纂会 編集『昭和前期 日本商工地図集成 ――東京・神奈川・千葉・埼玉――』に収録されている(7頁)「大日本職業別明細圖 日本橋區神田區」(昭和八年十二月二十二日發行・東京交通社)その他を見るに、日本橋区浜町二丁目11は現在の中央区日本橋浜町二丁目34の清洲橋通り沿いで、明治座(二丁目31)の少し北、浜町公園からなら「北」ではなく「西」です。久松町停留所(久松町の交差点)にごく近い位置です。なお、54頁2〜4行めに「ちょうどこのあたりで隅田川は大きく蛇行しており、あたりは川に突き出した角地になっていた。佐々木邸の前の道を、東に行けばじきに建設中の清洲橋にぶつかる。清洲橋の竣工は、翌年だった。」とありますが、まず「大きく蛇行」や「突き出した角地」とは、少々大袈裟ではないでしょうか。「佐々木邸の前の道」が震災復興事業で新たに作られた清洲橋通りですが、「東」ではなく「南南東」で700m余り離れていますから、歩けば10分くらいでしょうか。これを「じきに」というかどうかは、人によりましょうが、ごく近くだという印象を与える表現であることには違いありません。ちなみに浜町公園も震災復興事業で新設された公園で、当時は開園前でした。
次回、「友人」宅の最寄り駅について述べ、失踪当日に戻して行くつもりです。(以下続稿)