瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

七人坊主(09)

 小寺融吉「八丈島の話」より、七人坊主関連の部分を抜いて置く。雑誌「民族」第壹卷第六號(大正十五年九月一日發行・民族發行所)一五〇頁。

 坊主が七人難船した揚句、八丈に上陸した。渇を覺え/てならぬので、持參の小刀を持つて海邊を掘つて水を得【以上、上段】た、今も殘る小刀水(コガタナミズ)の舊蹟である。そして/坊主達は元より八丈に用は無い上に、渇も醫したので更/に目的地へ行くべく舟へと急いだ。所が知らぬ間に舟は/ひとりでに沖へ沖へと流れて行く。驚いて黒骨の扇で招/き返さうとしたが遲かつた。
 内地人に反感の強い島人は、手に手に武器を持つて殺/到して來た。逃ぐるを追うて七人の坊主を其海岸で慘殺/した。怨念が其地に宿る。其地へ來て「坊主」と呼ぶと、/必ず七人の坊主の姿が夢現と現れたので、それからは誰/でも其地で坊主といふ言葉を愼んだ。つい近頃のこと、/或若者が馬鹿にしきつて出かけて行き、「坊主々々」と怒/鳴つたが別に現はれなかつた。只ふと氣がつくと、煙草/入と煙管とが紛失してゐた。其男は數日來て探したが、/遂に見つからなかつた。此話は其男の妹が、今自分に語/つて聞かせた人に話したのである。


 「武器」による「惨殺」であり、その理由は「内地人」への「反感」なのである。これでは「ウソっぱち」との感想が出るのも当然であろう。取材源であるが、冒頭を引用して置こう(一四九頁下段)。

  先年伊豆の大島へ遊びに行つた時、八丈島生れの話/
 好きの人に懇意になつて、いろいろ面白い話を聞いた。/
 其二三を左に記して置く。


 小寺氏が伊豆大島に出掛けた時期が確定出来ればもう少し絞れるが、大正末年頃、1920年代の前半と見て置けば良いだろう。
 島にいない気楽さから、このような話題になったのかも知れない。「小刀水」が『八丈島の民話』の「コミノ川」に当たる訳で、他に地名は出ないが同じ話の異伝であろう。
 「反感」というのは小寺氏に語った人の想像(解釈)かも知れないし、もっと「反感」を持っても仕方がないような理由があったのを、忘れていただけなのかも知れない。こうした、今の感覚からしてやや受け取りがたいところを、気を回して勝手に補って書き換えたりしても仕方がないので、昔の人の感覚や行動が今と違うのは当たり前である。昔のことがはっきり分からないのもまた、当然である*1。そして、「ウソ」だとしても「話」が存在するのは事実である。日本各地には、もっとはっきりウソと分かるような話も多い。ならば、なぜこんな「ウソ」が定着してしまったのか、ということが、今度は問題になるはずである。
 そういった問題意識から、山口氏やTO氏は「七人ミサキ」との関連を指摘している。尤も私は、そこまで風呂敷を広げるだけの知識もないので、基礎となる資料の整理だけをして置きたいのである。(以下続稿)
2013年8月6日追記】小寺氏の原文には「反感」としかないのに、何故か全て「敵意」として言及していました。この伝承に於ける島民の行動に合わせて「反感」を「敵意」に勝手に変換してしまったものか。よって3箇所全て「反感」に改めるとともに、不注意をお詫びします。

*1:山口氏やTO氏は坊さんの一部が天然痘に罹患していたため隔離されたという「説」の存在に言及しているが、これは小池氏が難船の乗員を島民が恐れる理由として紹介した、難破船の乗員から天然痘が広まって島民に多くの死者が出たという正徳元年(1711)のケース(『怪奇探偵の実録事件ファイル2』40〜41頁)が、いつの間にか「七人坊主」に結び付けられてしまったものだろうと思う。だとすると、可能性の提示でしかなかったものが、いつの間にか話の異説にまで昇格してしまった訳だ。伝説の分析や解釈には、常にこのような危険が付き纏っている。