- 作者: 湯本和夫
- 出版社/メーカー: 広済堂出版
- 発売日: 1996/11/01
- メディア: 単行本
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1頁(頁付なし)の「はじめに」の冒頭を引用してみよう。
本書は、拙著『鎌倉謎とき散歩』(史都のロマン編、古寺伝説編)の二冊に加筆、改訂したもの/である。従前の史話形式からルートに沿って鎌倉の歴史を訪ね歩く、やや案内記的な構成に改め/た。そのため残念ながら省かざるをえなかった旧跡も少なくなかったが、その分、史都の案内役/になり得たと思っている。
元版の2冊は未見。本書ではエリアごとに配列されており、2〜3頁(頁付なし)の目次を見るに、「円覚寺、建長寺で鎌倉らしさを感じる/のどかな扇ケ谷から化粧坂を登る/源頼朝の町づくり/鶴岡八幡宮を歩く/覚園寺で鎌倉時代にタイムスリップ/塩の道、鎌倉街道を行く/鎌倉幕府滅亡の地から日蓮宗の寺々をめぐる/大仏さまには謎がいっぱい/宋の貿易船が出入りした港、和賀江島/江の島は神秘に満ちた観光地」の10の章に分かれ、さらに61節(5・4・12・3・5・6・5・7・8・6)に分かれる。各章の扉にルート地図が掲載されており、「やや案内記的な構成に改めた」とあるが、案内記としては全くの余談というべき「ジンギス汗は本当に義経か?」などという節(200頁2行め〜205頁5行め)もあって、やはり「謎とき」に主眼を置いた「史話」、本の中で「鎌倉」を「謎とき」しつつ「散歩」する読み物である。1頁17行・1行43字。
「塩の道、鎌倉街道を行く」は目次にも中扉(183頁、頁付なし)にもこうあるが、奇数頁左上にある柱(ヘッダー)には「塩の道、金沢街道を行く」とある(〜220頁)。本文中にも「金沢街道」が頻出し、こちらの方が正しいだろう。「鎌倉入りした頼朝が最初に建立した寺・勝長寿院/頼朝は功績ある弟、義経をなぜ追放したのか/ジンギス汗は本当に義経か?/城よりも強かった杉本観音/竹林が美しい報国寺/身代わりになった光触寺の仏さま」の6節に分かれ、鎌倉宮を出発して杉本寺・報国寺・光触寺・朝比奈切通しを経て鼻かけ地蔵まで。
「身代わりになった光触寺の仏さま」(213頁10行め〜)はまず『頬焼阿弥陀縁起絵巻』の内容を紹介し、他の身代わり譚として「延命寺の身代わり地蔵」に触れ、さらに奇瑞譚のある鎌倉の仏像をいくつか挙げている。続いて、次のようにある(217頁9行め〜218頁6行め)。217頁上、22字分が「塩を運ぶ商人が塩を供えたという金沢街道の光触寺の塩嘗地蔵。」のキャプションのある、堂全景の写真である。
もう一つ、光触寺では塩嘗地蔵についても触/れなくてはならない。
塩商人の往来ぶりを伝えるのは、現在光触寺/境内に安置されている塩嘗地蔵だ。石造地蔵菩/薩像だが、かなり風化してしまっている。この/地蔵、かつては金沢街道、光触寺橋のたもとの/地蔵堂にあり、金沢街道を通る塩商人の信仰を/集めていた。
土地の古老の話では、金沢の塩商人はお初穂/をあげたのち、隣りの高砂屋という茶屋で梵火などにあたり、茶をご馳走になっていたそうで、/出がけに彼らは塩を湯のみに一杯ずつお茶代としておいていったとか。
『鎌倉志』は、鎌倉に来るたびに初穂として塩売りが地蔵に供していたので、塩嘗地蔵というと/述べているが、異説も紹介している。「或は云、昔此石像光を放しを、塩売、像を打仆して塩を嘗/させける。それより光を不放。故に名くと云」と記している。*1
いかにも塩の道・金沢街道にふさわしい話である。
「金沢の塩商人」は「六浦」とした方が良かったか。「土地の古老の話」が出てくるが、これは直接取材したものではない。IT支援NPO団体「鎌倉シチズンネット(KCN)」のHP「e-ざ鎌倉」の、大西清治「鎌倉の路」中の「六浦路」にこの記述の由来となった(らしい)本が紹介されている。しかし本書巻末(164〜165頁)にその本は挙がっていないので、別の本からの孫引きと思われる。「焚火」を「梵火」とした誤植も、或いは依拠した本に起因するものか。なお、大西氏は同じHPの「鎌倉七口の坂と切通を歩く」(「鎌倉七口・坂と切通」「鎌倉の坂と切通し」とも)の「朝夷奈切通」でも塩嘗地蔵に触れている。
*1:「名」にルビ「なづ」。