瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

福田洋著・石川保昌編『図説|現代殺人事件史』(4)

 2011年11月12日付(1)2011年11月13日付(2)2011年11月14日付(3)に続けて書き殴った駄文(2011年11月14日)。当時は恥じらいがあったが今になって上げても良いか、という気分になった。妄言多謝。

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 増補新版で増補された「解説⑤」を執筆したのは石川氏らしいが、まず「事件数と死者数の低減化」が指摘されている。もうあちこちで指摘されていることと思うが、重要犯罪の件数が多かったのは昭和30年代で、近年は特に減少傾向にある。ところが、「解説⑤」でも、数は減っているが「一件あたりの被害者数が多い」と言う。しかし、一家皆殺しなどは昔の方が多かったのではないか。そういうと「無差別殺傷事件の多発」だ、と反論されそうだが。
 しかし、私が特に違和感を覚えるのは「あとがき」が平成11年(1999)の初版から平成23年(2011)の増補新版までそのままになっていることである。2頁分の「あとがき」の2頁めの一節を引用してみよう。

……。世紀末の昨今、抑圧、停滞、閉塞などの暗い言葉とともに、犯罪はますます多発し、凶悪化している。とくに、幼児、女性、老人などを狙った犯罪が目立つ。こんな倫理喪失、弱肉強食の世界を浄化し、人間の愛と尊厳を取り戻すにはどうすればいいのか? ……


 どうも福田氏は、「人間の愛と尊厳」が尊重された時代が実現していたのに、それが失われつつある、と思っているようである。そうでないと「取り戻す」という表現にはならない。しかし、いつそんな時代があったと言うのか。
 事件の記録を読めば、昔の事件だって凶悪だと思う。しかし普通の人はわざわざ好んで事件の記録など読まないから、最近の事件のニュースをセンセーショナルに報道するのを見て、最近の事件が凶悪なのだと思う。

Gメン'75 BEST SELECT VOL.1【DVD】

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 それに、人間は過去の暗さを忘れる。流石に現実の犯罪をそのまま体感する訳には行かないから、試みに『Gメン’75』でも見れば良い。子供の頃にも見たのだが、陰湿で残忍な犯罪の数々、蟹江敬三扮する凶悪犯のおっかなかったこと。10年くらい前に再び一部を見る機会があったが、その、夜の街の暗さ、というか、何とも言いようのないくらいドラマ全体が暗い。もちろんフィクションなのだが、あの時代の生み出したフィクションである。『特捜最前線』とか『太陽にほえろ!』とかも見てたけど。
特捜最前線 MUSIC FILE

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太陽にほえろ!全曲集

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 犯罪の多発云々は「世紀末」の当時、多少増えたりもしたようだが昭和30年代ほどには増えてはいなかったはずだし、特に本書初版刊行後に問題になった犯罪総数の増加・検挙率の低下は、浜井浩一芹沢一也『犯罪不安社会』にも指摘されているように、認知件数が増加しただけで、つまり従来警察が犯罪として認知していなかった家族や男女間のトラブルまで事件として扱うように(本書128〜129頁「桶川女子大生ストーカー殺人事件」以降)なったというカラクリで、要はこれまでだって存在していたものが急に事件に昇格しただけの話で、重要犯罪は低減しているし、重要犯罪の検挙率は落ちていないそうだ。
犯罪不安社会 誰もが「不審者」? (光文社新書)

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いじめを考える (岩波ジュニア新書)

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 認知されない「事件」が、実は昔は多かった、ということとの関連で言えば、いじめも増えた、とか、陰湿になった、などと言われるが、夙になだいなだ『いじめを考える』が、昔の家庭内の嫁いびりのような密室内での、表に出て来ないいじめを指摘して、昔そういうことがなかったかのような言説は幻想に過ぎないと述べていた。桂米朝演ずる永滝五郎 作の新作落語「除夜の雪」を思い出しても良い。『ガラスの仮面』に描かれた信じられないような妨害工作は美内先生の妄想の産物なのか。明治の新聞には精神に異常を来した丁稚や女中の記事が散見される。実家に逃げ帰っても我慢して奉公先に戻るよう説得され、戻される途中で逃げ出し鉄道自殺したなどという記事もあった。陰湿で逃げ場がない空間で上下関係による圧迫を加えるような人間に出くわしてしまったら本当にどうしようもない。落語に出てくる番頭の夜這いなどは今の基準を当てはめれば間違いなくパワハラ・セクハラだろう。そして、逞しく生き残って社会的地位にも就くのは加害者の方で、被害者の方ではない。加害者はしばしば自分の加害を全く意識しない。意識していないから記憶もしない。だから改めてイジメだのと聞くと「昔はそんなことはなかった」と平気で言えるのである。
特選!! 米朝 落語全集 第十八集

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桂 枝雀 落語大全 第二十五集 [DVD]

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 過去の立派な人の逸話を挙げて、日本人全体がそうだったかのように思い込んでしまっている人もいるが、古典〜近代の小説なんかを読んでみても昔の日本人が甚だ立派だったとは、思えない。「武士」なんて人口のごく一部だし、野口武彦が指摘するように、太平の世に骨抜きにされたような、少しも立派でない武士も存在していた。だから「昔の日本人は立派だった」と言ってる人たちが紹介するような人物の逸話から言えるのは、昔の日本人にも立派な人がいた、というまでで、日本人全体が立派だったのかどうかは、別の問題である。別に自虐史観ではないが、昔だって「卑怯」な日本人は存在した。しかし日本人全体が卑怯だった訳ではない。周囲を見回しても良い人ばかりではないことにすぐに気付くだろう。悪い人ばかりでもないことにも。ごく一部の、特別な部分を拡大解釈して、全体がそうであったかのように思い込むのは、苟も××学者と名乗る程の人物は、厳に慎むべきところのはずだ。立派な人を顕彰してその生き方に学ぼうとするのは良いことだが、それで立派でない人がいなかったかのように思い込むような単純な人が出てくるなら、自虐教育が必要になってくるのではないか。無論自虐一辺倒にするのではない。バランスの問題である。
 こんなことを書くと、セクハラとかパワハラとか、今でこそ問題になっているが昔はそう問題でもなかったのだから、今の基準(倫理)を昔に当てはめるのは間違いだと言う人も出て来るかも知れない。が、それなら、違う基準から弾き出された数値を安易に比較して増えたとか減ったとか、良くなったとか悪くなったとか言わないことだろう。もちろん、セクハラやパワハラが出て来るから落語や古典文学を読むのを止めようなんてことも、思わない。いや、広く古典文学を読んでこれを現代の風潮と比較すれば、過去の不都合な事実の忘却に基づく尚古思想は、持ちようがないと思うのだが。