瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(02)

 「真夜中の檻」は、行方不明になった友人の残した手記を発表する、という設定の枠物語(額縁小説)になっている。17頁に〔以下の文章は……念のため付記しておく。――昭和三十五年孟夏 編者しるす〕という前置きがあり、最後、128〜130頁に〔編集後記。――風間直樹の手記はここで終わっている。……〕として風間の行方についての推測が述べられている。この間の18〜127頁が「風間直樹の手記」である。
 時期は「昭和二十×年の夏」で、明示されていない(18頁)が、「終戦四年目のことで」とある(20頁)から、昭和24年(1949)であろう*1
 編者の前置き(17頁)にも「亡友逝*2りてすでに十有星霜」とあり、編集後記(129頁)にも「過ぐる十年間」とあって、事件があったのはこの手記を風間の友人が発表した昭和35年(1960)より10年以上前、ということになる。「孟夏」は初夏、陰暦四月。従って、手記の最後に描かれる冬の情景(125〜127頁)は、昭和24年(1949)から昭和25年(1950)にかけてのもの、ということになる。
 風間は「戦後、××大学の史学科を卒業したのち、しばらくの間都内××高校の歴史科の専任教師として在職していた」とする(17頁)が、新制高等学校発足は昭和23年度である。「その年はじめて勤めた学校の休暇を利用して」とあった(18頁)が、「秋が過ぎて冬が来ると、……。わたしはもう学校へも行かなくなった。」とある(125頁)から、「しばらくの間」といって、ある年の春から秋にかけての、半年程のことなのである。そして、手記はその年の冬で終わっている(127頁)。この手記が編者の手に渡った事情については、後で検討する。
 さて、風間は「ちょうど盆すぎの、きゅうに暑さのきびしくなった七月二十一日の午前十時五十六分、上野発上越まわり新潟行きの列車で東京をたっ」ている(19頁)。そして舞台である「新潟県×魚沼郡法木作村」(18頁)に向かうのだが、どこまで列車で行ったのかというと、「目的駅のO――でおりたのが三時ちょっと過ぎであった」とある(23頁)。
 既に昭和6年(1931)清水トンネルの開通により上越線は全線が開通しており、「上越まわり」とはもちろん上越市(昭和46年成立)のことではなく、上越地方のことでもなく、上州(上野国)と越後を結ぶ上越線のことである。「国境の長いトンネルをこえると、」で始まる段落(22頁)は、もちろん川端康成「雪国」を意識したものであろう。
 この「O――」は小千谷である。後で確認するつもりだが、かなり具体的に描かれている。平井氏と小千谷の縁だが、東氏の評伝に、平井氏が疎開先の新潟県北魚沼郡小千谷町(昭和29年市制施行して小千谷市)で昭和20年(1945)から昭和22年(1947)の2年間、新潟県小千谷中等学校(旧制。昭和23年より新制の小千谷高等学校)の英語教師をしていたとある(荒俣氏「序」紀田氏「解説」も言及)。
 ところで、7月21日10時56分に上野を発って15時過ぎ*3小千谷に着いたとすれば、4時間ちょっとで移動出来たことになる。そして、その日の日没直後の頃(28〜31頁)に目的の麻生家に着くのだが、今なら新幹線を使って上野〜小千谷間は2時間ほどであるが、どうも、私は鉄道事情には詳しくないけれども、速く着き過ぎているような気がするのだ。
 そう思っていると、手記の最後近くに「麻生家へきた七月二十二日」とある(103頁)。これなら早過ぎる、という疑問はなくなるのだが、そうなると、今度はひどく時間がかかったことになってしまう。もちろん、上野を出てから麻生家に着くまで(19〜31頁)、どこかに泊まったような記述はなく、もちろん車中泊でもなく、1日で移動したように書いてある。
 この辺は、時刻表の復刻版でも眺めて、改めて確認することとしたい。(以下続稿)

*1:昭和23年(1948)の可能性もあると思ったが、24年の方が良いようだ。

*2:ルビ「さ」。

*3:前後の記述からして、午前「三時」では絶対ない。