瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

平井呈一『真夜中の檻』(06)

 整理してみよう。
 昭和21年度に「県下の新制の大学」に入学し、その年のうちに退学したとして、翌年東京の大学に進学し、そして旧制の3年制としても、昭和22年度・23年度・24年度だから昭和25年(1950)春の卒業で、どうしても昭和24年(1949)春には卒業出来ない。
 かつ、そもそもが「終戦の翌年、郷里の旧制の中学」を卒業したというところからして、おかしい。
 終戦当時の旧制中等学校は4年制で、現在の中学校1年次から高等学校の1年次に当たる。昭和21年(1946)春に旧制中学を卒業したとして、昭和20年度に中等学校4年生になる学生は、留年せずに卒業すれば満16歳、昭和4年度の生れという勘定になる。
 ところが、その昭和21年(1946)に大学を中退して引き籠もって猛勉強中に「狂態を演じた」のを「二十歳を過ぎたころ」としている(84頁)。当時は数えで勘定しただろうから、昭和4年(1929)生で十八歳、昭和5年(1930)生で十七歳である。いくらなんでも「二十歳を過ぎたころ」の訳がない。
 どうも、この辺、旧制の高校と新制の高校と旧制の中学とがごちゃごちゃになって、区別が付かないまま書いてしまったのではないか、との疑いを抱かざるを得ない。旧制高校は3年制だから、旧制中学に加えてこの旧制高校の時期を加算すれば、大学に入る前に数えで二十歳か二十一歳(満19歳)になっている。平井氏はそのつもりで、誤って旧制中学と書いてしまったのではないか。いくら戦後の混乱期でも、中学を卒業してそのまま大学には進学出来ない。但し旧制高校は戦時中に2年制に短縮したのを終戦直後に3年制に戻したため、昭和20年(1945)春の卒業の次は昭和22年(1947)春卒業で、昭和21年(1946)春の卒業はなかった。
 こうして見て行くと、どうも平井氏には時代を整理する感覚が、鈍かったように思われるのである。1月9日付で平井氏が「the American war」を時代錯誤で「アメリカの南北戦争」と訳していることを指摘したが、自作に於けるこの辺りの処理を見ても、こういったことの整理が得手だったとは、やはり思われない。

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 私は得意科目が世界史で、近現代史が出題され日本史よりも平均点が10点低かったセンター試験で98点取った、というのが空しい「俺って昔」自慢なのだが*1、歴史の分からない、いや頭に入らない人に説明していて気付かされるのは、少なからず、空間的な広がり(地理)と時間の広がり(歴史)がつかめない人がいる、ということである。両方が組合わさって、面になり空間になり、その上に初めて人間関係なども繋がって来る。そうでなければ、広がりのない点でのみ見ていて、すなわち有名人だとか、町だとか寺社だとかのピンポイントで、一向に広がりを見せない。新撰組やら独ソ戦やらにやたら詳しいのに、同じ時代の他の集団の動きには全く無頓着な連中である。私はこういった辺りが気になってしまうので、気にならない人も多いと思うのだが、本筋には関わらないにしても、筋が通らないことには違いないので、気にならないから構わんというものではないのだから、指摘して置く意味もあろうかと思ったのである。
 それでは、平井氏の地理感覚の方はどうかというと、こっちはかなり正確に、舞台となった集落の特定も出来そうなくらいに書いてある。話が戸崎氏のことからずれてしまったが、次に作品の舞台の確認を先に済ませておくこととしたい。(以下続稿)

*1:しかしそっちの学科には進まなかった。語学への意欲が低く、同じセンター試験で英語88点だった。当時は再生機器を使用しての試験はなかったから200点満点なのだけれども。こんなに語学が出来ないのに外国史をやっても仕方がないと思ったのである。