瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

夏目漱石『吾輩は猫である』の文庫本(01)

 『坊っちゃん*1を読んだ私は、その勢いで『吾輩は猫である』を買ってきた。
 しかし、中学の、たぶん1年生に、あれが面白い訳がなく、全くと言って良い程読み進められなかった。
 しかも、買ってきたのが当時上下2分冊だった岩波文庫の上巻のみだった。
 その後、私は本を読むようになったが、2011年1月1日付にも書いたけれども、有名所は皆が読むから私が読まなくても構わない、という妙な理屈を考えて、漱石は手にしなかった。高校2年のときに、例によって『こゝろ』の「先生の遺書」のKの自殺の辺りを読まされたが、現代文の教師が延々続いた授業で、とにかく「傑作だ」みたいなことしか言わないので、それで嫌になってしまった。
 それでも、文章は、まだ良い。小説の登場人物に感情移入なんか出来なくても「こんなことする奴もいるのか」と冷やかして読めば良いし、随筆や評論で筆者の意見に共感出来なくとも、言わんとすることさえ読み取れればそれで良い。ところが、詩歌の授業が苦痛で、あれは初めから「良いものだ」「傑作だ」という色付けをした上で押し付けてくる。文章のように「この馬鹿が」との秘めた思いを胸に抱きつつも、書いてある内容が理解出来ればそれで済む、というものではない。それから、国語の教師というのは、詩歌の授業をするとついでに実作をさせたがるのである。私はマイナスの感情はかなり人にさらけ出しているけれども、褒めたりするのは嫌いで、それは結局、自分の好みの、価値観の押し付けだからで、自分が良いと思うものを人が良いと思うとは限らないのに、人に延々語った上に同意を求めるというような態度が嫌いで、だからそういう、思い入れたっぷりの授業は苦手だったし、そんなことを人に言いたくもなかった。だから、そういうことをやらされると、教科書に載っている短歌をもじって狂歌にして提出したりしていた。
 読書感想文も大の苦手で、高校のときには成績を下げると言われながら3年間一度も提出しなかった。それも思い出があって、中学2年か3年のとき、同級の女子が校内の読書感想文コンテストだかで金賞だったかに選ばれて、市のコンテストに出品されることになったのだが、印刷されて配布されたのを見るに『坊っちゃん』の感想文だったのだが、最後の方の玉子をぶつけるシーンを読んだとき「私は思わず「やったぁ!」と叫んでしまった」と書いているのを読んで、心密かに「誰が叫ぶか!」と逆上して、以来、読書感想文なぞ書かないと心に誓ったのである。……馬鹿だねぇ。
 今からしてみると、あの女子は本気で「やったぁ」と叫んでいたのかも知れない。『こゝろ』でしょうもない授業をした人には今でも同情しないが、短歌を書かせた人は良い人だったから、もっと素直な短歌を書けば良かった。叙情が照れ臭ければ叙景にすれば良かった。……丸くなったというのか、衰えたというべきか。
 とにかく、そんなこんなで、下巻も買って揃えないと、と思いつつ、漱石を読む気が失せてそのままにしているうち、岩波文庫の改版があって1冊本になってしまったのである。だから『吾輩は猫である』は今でも上巻しかない。(以下続稿)