瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

中島敦の文庫本(22)

 文庫本の話ではないのだが4月10日付(16)の補足なのでここに混ぜて置く。というのも、岩田氏について『中島敦全集』3の「解題」を引いたが、『中島敦全集』別巻の方の「解題」、522頁下段13行め〜527頁下段2行目の鷺只雄「来簡」に、もう少し詳しい紹介があったのを、うっかりして見落としていた。1段23行。

 岩田一男は東京外語出身で横浜高女の同僚。努力家、勉/強家で高等教員の検定試験に合格して昭和十三年には小樽(以上525頁)高商(現在の小樽商大)へ去り、のち一橋大に移り、「受/験の神様」として知られた。六通の中、新収は3で、他は/既収。


 私は岩田氏没後10年以上経ってから受験生になったので、岩田氏の「受験の神様」としての令名を知ることはなかった。Amazonに書影のあるものを次に挙げて置く。

英絵(えいえ)辞典―目から覚える6,000単語 (1968年) (カッパ・ブックス)

英絵(えいえ)辞典―目から覚える6,000単語 (1968年) (カッパ・ブックス)

英語・一日一言―知恵と感動のことば (ノン・ブック (3))

英語・一日一言―知恵と感動のことば (ノン・ブック (3))

 それはともかく、「新収」の「3」は絵葉書。「既収」は『中島敦全集』第三卷(昭和五十一年九月三十日初版第一刷發行・昭和六十年五月二十日初版第八刷發行・筑摩書房・790頁)に収められているもので、553〜759頁「書簡」として555〜689頁「書簡Ⅰ」に年代順に179通、690〜702頁「書簡Ⅱ」は長男中島桓宛の南洋からの50通、そして703〜756頁「來簡抄」として23人からの来簡が人別に並べられ、最後に757頁「「書簡Ⅰ」受信者一覧」と758〜759頁「「來簡抄」受信者一覧」がある。岩田氏宛の1通は「書簡Ⅰ」の五八(584〜586頁)、岩田氏からの5通は「來簡抄」の14人め(738〜740頁)に収録されている()。
 772〜790頁「解題」の末尾に(昭和五十一年八月十五日 郡司勝義)とある。この解題の記述(788頁4〜10行め)は最新の全集よりも詳しい。

 岩田一男氏は、横濱高女における同僚である。著者が横濱高女に就職してみると、同校ではほぼ同じ年代の新任教師が/數人ゐて、同校にさはやかな風をもたらし新しい一時期を劃したといはれてゐる。その同僚の中でも才子であり、格別の/勉強家、努力家に岩田氏があつた。その天馬空を翔けるが如き勉強ぶりの一端は、著者の身邊小説的作品の中によく活寫/されてゐると言はれてゐる。昭和十三年には横濱高女を辭めて、小樽商業高等學校の英文科の教授として赴任し、のち一/橋大學教授を經て、同大學を停年退任後の現在も健在である。同氏が嘗て著はした「『光と風と夢』とVailima Letters」な/る論文は、一見即物的文獻學的方法を以て終始してゐるが如くであるが、虚心に讀むならば、その奥に「青春の挽歌」と/もいふべき哀調が秘められてゐることに思ひいたる讀者もあることであらう。


 中島敦の書簡と中島敦宛の来簡が1冊にまとめられているのでこの昭和51年(1976)版の方が私のような図書館派には便利である。最近足腰が弱った、という程でもないがやはり重い物を持つと応えるようになったので、でもこの第三卷は1冊でも十分重いが。
 それにしても、当時はまだ関係者が健在であったのだ。ついでに既に未刊に終わっていた著書『中島敦―人と作品』についても、どの程度進行していたのか、確認して置いてもらったら有難かった。