さて、赤堀氏の伝記的な研究としては4月20日付(30)に列挙したブログ記事のうち【⑨書物蔵】が引用する石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』の「赤堀又次郎」項が簡略ながら先駆的なもので、次いで2011年にブログ記事【⑦書物蔵】2011-06-30「赤堀又次郎 1866-1943?について」があり、これと先述【⑨書物蔵】2011-07-04「げげげ、げげーっち(×o×) 赤堀又次郎の正体」を受けての『書物通の書物随筆』第一巻『赤堀又次郎『読史随筆』』佐藤哲彦「解題」の「赤堀又次郎について」が、8月下旬刊だから短い調査期間ながらさらに進展させている。その後10年近く何の成果もなかったが2021年3月に村嶋英治「最初のタイ留学日本人織田得能(生田得能)と近代化途上のタイ仏教」が発表されて、さらに若干の進展を見せている。
村嶋氏は佐藤哲彦「解題」を参照したことを断っているがHN「書物蔵」のブログ「書物蔵 古本オモシロガリズム」には触れていない。しかし佐藤氏の「解題」を通して【⑦書物蔵】他のブログ記事を参照していることは確実で、赤堀氏の生歿年について「敗戦前に亡くなったのは確実で」と慎重な佐藤氏に反し、村嶋氏が2度繰り返して「赤堀又次郎(1866‒1943?)」と書いているのは【⑦書物蔵】そしてそのリンクから【②higo】さらに【①空山】へと遡ったことで、このように書いたのだろうと思われるのである。
3月28日付(07)に見たように、村嶋氏は『文芸年鑑 昭和十二年版』を参照しているが、佐藤氏は『文芸年鑑』には触れていない。すなわちこれは【⑦書物蔵】を(頁付もそのまま)利用したのである。
昭和十二年版『文藝年鑑』は4月4日付(14)に、赤堀氏の長男と思われる赤堀秀雅の経歴を確認するために参照している。257~364頁「第三部 文筆家總覽」の270頁3段め(4段組)11~13行めに、
赤 堀 又次郎 牛込區加賀町二ノ二
慶二生、愛知縣 明二一東大、國史、元東/ 大講師。「文學者年表」
とある。これに続いて昭和14年版と昭和15年版が出ているのだが国立国会図書館には所蔵されていない。【⑦書物蔵】は昭和15年版を見ていて「住所が、「牛込区早稲田南町四」に移って」いることを報告しているが、この転居は反町茂雄『一古書肆の思い出』に拠れば昭和11年(1936)のことである。【⑦書物蔵】はさらに、戦中に1冊だけ出た昭和18年版にも同じ住所で見えていることに触れている。
・日本文學報國會 編纂『文藝年鑑』二六〇三年版(昭和十八年八月七日印 刷・昭和十八年八月十日初版發行・定價參圓・桃蹊書房・口絵+366頁)
207~361頁「第三部 文筆家總覽」の211頁3段め(4段組)20~21行め、
赤 堀 又次郎 牛込區早稻田南町/ 四 慶二生、愛知、東大、國史。
そして【⑦書物蔵】は最後にもう1点、次の文献を挙げる。
・日本出版文化協會 監修/協同出版社編纂部 編輯『現代出版文化人總覽(昭和十八年版)』昭和十八年二月十一日印刷・昭和十八年二月十五日發行・定價金五圓・協同出版社・848頁*1
「書物蔵」はこれを名前の読みの資料として紹介しているが、実はこれが石井敦 編著『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』の「1943/陸軍士官学校教官」の根拠になっているらしいので、関連する箇所について詳しく見て置こう。
311~771頁(頁付なし)「(第五部)現代執筆家一覽」の321頁1段め(4段組)6~10行めに、
赤堀 又次郞*2 慶二生
牛込區早稻田南町四
愛知
士官學校教員
日本歷史
とある。これを石井氏は当時の職業と見做して記載しているのだけれども「士官学校教員」は現職ではない。佐藤氏の調査で明治39年(1906)9月に休職になっていると知っているから云うのではない。
311頁(頁付なし)扉「(第五部)現 代 執 筆 家 一 覽」の裏、312頁(頁付なし)は上部に「(考 備)」として以下の5項目の凡例が示されている。
一、本一覽は昭和十六年以降昭和十七年五、六月頃までの單行本著/ 者及び諸雜誌執筆家を主たる標準として嚴選せる現代執筆家に、/ 出版文化面に於て直接活躍しつつある文化人を加へたる總數約四/ 千三百九十人を分類式五十音順に配列して大體昭和十七年七月―/ 十月現在に於けるその概略を收錄したものである。
一、記錄は總て執筆家自身の囘答を以て之に充てることを原則とし/ たが、回答なき人々に關しては能ふ限り調査の上收載した。但し/ その場合不明の項目が生ずるは止むを得ず、この點讀者の諒承を/ 乞ふ次第である。
一、氏名の振假名は便宜上字音假名遣に依つた。從つて國訓の振假/ 名は大體歷史的用法に依つてあるが便宜上發音通りにしてあるも/ のもある。(例へば「近江」の歷史的振假名は「アフミ」であるがこ/ れは「オウミ」としてあるが如きである)尙、頭字第一發音の五/ 十音別は音訓に拘らず發音通りに抽き出されたし。
一、記載項目の順序は下記の通りであるが、各人全部の項目が揃つ/ てゐる譯ではない。この中過去の職歷には何等の肩書なく、現職/ の場合は必ず「現職」と肩書あるに依り注意せられたし。尙、小/ 説家、畫家等文筆を專門とする人々で現職項目が省略せられてゐ/ る場合が多いが、それは專攻又は執筆項目に依つてそれが直ちに/ 專門職業と類推して大體差支へない譯である。(各人自身別に現/ 職を持つてゐても發表しない場合も無論多い)
一、十六年以降新聞雜誌に執筆せる作品論文等の括弧内紙誌名の下/ に附記せる數字の中、アラビヤ數字は十六年中の紙誌月號數、日/ 本數字は十七年中の紙誌月號數である。
「下記の通り」の「記載項目」とはすなわち下部に、
記 載 項 目
氏名 生年
本名、別名、別號等
住所(東京市名略)電話
出 生 出身校 博士號
府縣名 科 名 爵位等
職歷
現職
專攻又ハ執筆專門項目
所屬團體(役名等)
⒈著書の一部(發行所)
⒉昭和十六年以降新聞雜/誌に執筆せる論文作品等/の一部(誌紙名)
とある(1~2行めの間はやや広い。また5~6行めの間は詰まり、前後はやや広い)。
赤堀氏の「士官学校教員」には(備考)4項めに断ってあったような「現職」の文字がないからこれは「職歴」の方である。石井氏は『現代出版文化人総覧』を見ながら、(備考)を見落として現職と誤認してメモし、そして『簡約日本図書館先賢事典(未定稿)』では、疑問に思ったかも知れないが急拵えの「未定稿」の「初版」のこととて敢えてそのまま、当時の職業として載せたのだろう*3。
佐藤氏が「昭和十八年までの足跡は‥‥若干は追える」と云っているのはこの『現代出版文化人総覧』昭和十八年版と『文藝年鑑』二六〇三年版の記載を指しているようで、ともに【⑦書物蔵】の指摘なのである。(以下続稿)