昨日の続きで、芦野信弘の娘陽子について、その年齢と派生する問題を突っ込んでみる。
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大正14年(1925)生という設定に従い、陽子が自分の年齢を数えで勘定しているという前提で考えると、彼女が「三つ」であったのは昭和2年(1927)である。
この年は名和薛治にとっても人生の転機であった。「三」章の20頁、
名和薛治は昭和二年ごろから北多摩郡青梅町のはずれに居を移した。
とある。現在の青梅市に隣接する東京に残された最後の郡部は西多摩郡瑞穂町・日の出町・奥多摩町、そして隣接していないが檜原村の3町1村である。地図で隣接する町の位置を確かめると分ることだが、青梅市を取り囲むように位置している。すなわち青梅も市制施行前は西多摩郡青梅町だった。これは、確認せずにあの辺はたぶん北多摩郡だろう、ぐらいのつもりでうっかり書き、校閲も見逃してしまったのだろう。
さて、陽子への取材は不発に終わったものの、却って奮起しさらに調査を進めた「私」は、「四」章の24〜27頁、今は「蒼光会の親方」*1になっている(「三」章・17頁)葉山光介を訪ねる。「蒼光会」は名和薛治が大正5年(1916)に結成した会だが(8頁)大正6年(1917)には脱退している(8・17頁)。葉山氏との面会は大した成果のないまま終わりそうになったが、「私」が辞去の意思*2を告げた後で、まず「あの細君も自殺したね。」という言葉が飛び出す。芦野信弘と「別れたあと」に自殺したというのである(26頁)。さらに別れ際に「私」が「芦野の家を訪ねて娘に会ったこと」を告げたとき、葉山氏が「似てるだろう?」と思わせぶりな目つきとともに言ったこと(26〜27頁)から、それが芦野陽子が芦野信弘ではなく名和薛治に「似てる」ということ、すなわち「陽子の父は名和薛治だった」ことに気付くことになる(28頁)。
ここで、陽子の「わたしが母と別れたのは三つの時」という発言(14頁)と合わせて、話を整理してみよう。
――陽子の顔が長ずるに及んで名和薛治との明らかな相似を示したことで、薄々感付きながら黙っていた芦野信弘も妻の不貞を詰らざるを得なくなり、いや、詰ったりせずにもっと陰湿に責めたのかも知れないが、そこで居たたまれなくなった妻(陽子の母)が芦野家を出、芦野信弘は名和薛治を直接責めたりしなかったようだが、芦野夫婦の離婚の原因は陽子が自分に似て来たことで不倫の事実が隠し果せなくなったからだと察した名和薛治も、逃げるように東京市内を離れ、「青梅の奥に百姓家を借りて引っ込んだ」、という風に推測されるのではないか。そこへ追い打ちをかけるように、芦野信弘が麻布六本木からわざわざ青梅まで会いに来る。芦野信弘はいったい何をして生計を立てていたのか不審だが、とにかく「一週間に二度も三度も」、「時には陽子を抱いて」会いに来る。
……以上の全てが、陽子が「三つ」の、昭和2年(1927)の出来事であったはずである。
陽子を連れての青梅訪問の際、陽子が「三つ」であったことは「私」も、
……。思うに陽子はこのとき三つで(32頁)あった。すでにその幼い顔には父親が誰であるかと具現しつつあった。彼女が一日一日成長するとともに、顔の特徴も成長する。その刑罰を目の前に持ってこられては名和もたまったものではなかったろう。……*3(33頁)
と触れている(32〜33頁)のだが、同じことは同じ年のうちに既に芦野家に於いて芦野の妻に対して逃げ場のない状態で実行され、芦野の妻を追い詰め、追い出していたのである。(以下続稿)