瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

松本清張「装飾評伝」(2)

 昨日の続きで、登場人物の年齢についての確認。

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 芦野信弘の娘陽子だが、「二」章の13頁、対面した「私」は「三十四五の小太りした硬い顔の感じの女」との印象を受ける。そして名和薛治のことを聞くと「名和先生が亡くなられたのは、わたしが七つの時ですからね。……」と答える(14頁)。
 最後の「五」章、「私」が謎解きをするところで、陽子の年齢を問題にして、以下のように述べている(29頁)。

 私が陽子を訪ねた時、彼女は名和が死んだ時は自分が七つの時であったと言った。名和の死は昭和六年であるから、逆算すると陽子の出生は大正十四年である。……


 昭和6年(1931)に「七つ」の陽子を、大正14年(1925)生と割り出したのは、満年齢ではなく数えである。名和薛治の「年譜」は満年齢で書いてあった訳だが、当時はまだ一般には数えで年齢を勘定する風が残っていたので、「私」は陽子のいう「七つ」を疑いもなく数えとして、勘定している。それに、これまで度々書いたが、満年齢だと誕生日が分からないと年齢が確定出来ないから、こんな大雑把な計算は出来ない。
 さて、陽子の生年を割り出した「私」は、これを芦野夫妻の離婚と、その後の妻の自殺の噂と関連づけて考えようとする。

……。彼が妻と別れたことは、(29頁)もとより「名和薛治」のどこにも書かれていない。だが、陽子は芦野家で生まれたに違いないから、妻との離別は大正十五年以後ということになる。なぜか私は、彼の妻が陽子を産んでまもなく芦野の前から立ち去ったような気がする。……(30頁)


 陽子を生んで「まもなく」立ち去ったのなら別に1年ずらして「大正十五年以後ということになる」と決め付ける必要はないと思うのだが、とにかく「私」はそんな計算をする。
 しかし、これはおかしいのである。「私」が陽子を訪ねたとき、名和薛治について聞く前に「陽子の母」について尋ね、次のような答えを引き出していたではないか(14頁)。

「わたしが母と別れたのは三つの時でしたから、わかるはずがありません。」


 この「私」は、自分で取材し、かつ、少し前に書いたことを、忘れているのである。(以下続稿)