瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

夏目漱石の書簡(2)

 正岡子規との往復書簡は別に文庫化されている。
岩波文庫31-011-16

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

漱石・子規往復書簡集 (岩波文庫)

和田茂樹編『漱石・子規往復書簡集』2002年10月16日第1刷発行・定価800円・500頁
 編者の和田茂樹(1911.4.12〜2008.4.29)は高齢であったためか「解説」は別人だし「凡例」を見ても「注」は底本にした『漱石全集』に付された注に基づいて作成、それから「子規に関するものを中心に、成瀬哲生、橋本槇矩両氏ならびに編集部による注を加えた。また本文中の〔 〕内は編集部による補足である」とあって、和田氏の見解が窺えるような箇所はないようだ。和田氏の作業は編成までなのであろうか。子規の書簡の方は講談社版『子規全集』を底本としている。
 本文は「岩波文庫(緑帯)の表記について」に基づいて表記がえを行っており、各書簡に発信者ごとに「漱1」「規1」のように通し番号が附されている。最後の往復は明治34年(1901)11月6日付「規48」と12月18日付「漱89」である。数の違いは初期の子規書簡が殆ど残っていないからで、明治23年(1890)の「規1」〜「規4」は子規の『筆まかせ』第三編に書き留めらているので、現存しているのは明治25年(1892)10月7日付「規5」それから明治26年(1893)8月16日付「規6」の旅先からの便りである。漱石書簡の方は同じ明治26年(1893)までに「漱32」に達しており、ここまでに14通の、失われた子規の漱石宛書簡が想定されている。なお、最終的に子規書簡は21通、漱石書簡は2通が、今は失われていると推定されている。 
 アート紙の口絵は表は白紙で裏に「漱石が子規に送った俳句稿に子規が添削し評を加えたもの(本書/162-163ページ参照,神奈川近代文学館所蔵)」とある。これは「漱43・〈規10〉」と整理されているもので、漱石が墨書したものに162頁に〔子規の添削・評。句頭の○、傍線も子規〕とあるように、子規が朱書で書入れをしたもので、本文の方には朱書であることは特に断っていない(ようだ)が、この口絵では2色刷で再現されている。なお〈規7〉〈規22〉〈規24〉〈規26〉〈規31〉〈規33〉〈規36〉〈規39〉〈規41〉〈規42〉も同様に漱石の句稿への子規の書入れであり(漱石書簡としての通し番号は略した)、従って収録されているもののうち27通は普通の手紙ではない。
 カバー表紙折返しの上部に紹介文、右下に「カバー=中野達彦/カバーカット=子規が漱石に贈った絵「あづま菊」/(明治32年10月、岩波書店蔵、本文三六七頁参照)」とある。これは「規46」で、367頁左上にモノクロ図版になっているが小さく文字を判読しづらい。カバー図版の文字は鮮明である。カバー裏表紙折返しは雑誌「図書」の広告。
 1頁(頁付なし)扉、3〜4頁「凡例」、5〜6頁「目次」、7〜10頁「出会うまでの漱石と子規」の表で上段「漱石」下段「子規」。
 各年の中扉(頁付なし)は左上に縦組みで「明治二十二年(一八八九、二十二歳)」の如く西暦と2人の満年齢(2人の誕生日は示していないので、満年齢で示すのなら厳密には21〜22歳の如くにすべきである)を示し、右下に図版を掲載、下に横組みのキャプションがある。以下、中扉の位置と図版のキャプションを見て置こう。
 11頁 明治二十二年「『木屑録』表紙」
 31頁 明治二十三年「野球のバットを持つ子規(明治/23年3月,松山市立子規記念博物館所蔵)」
 73頁 明治二十四年「友人と富士登山中の漱石(中央)/(明治24年夏)」
109頁 明治二十五年「箱根を旅した折の子規。三島にて/(明治25年10月,松山市立子規記/念博物館所蔵)」
121頁 明治二十六年「『俳諧』創刊号表紙/(明治26年3月)」
129頁 明治二十七年漱石の見合い写真/(明治27年3月)」
141頁 明治二十八年「当時の伊予鉄道列車」
193頁 明治二十九年明治29年11月,東北日報(後の河北新報)に入社/する佐藤紅緑の送別記念写真.」前列7名、後列5名の合計12名を紹介、最後に「(松山市/立子規記念博物館所蔵)」。
247頁 明治三十年「大江村の自宅で昼寝する漱石明治30年9/月から31年3月までこの家に住んだ(『漱石/写真帖』1928年より,31年山川信次郎撮影)」
293頁 明治三十一年「病床で仕事をする子規/(明治31年三宅雪嶺撮影,/松山市立子規記念博物館所蔵)」
311頁 明治三十二年漱石が出題した五高の大学予/科入学試験問題(東北大学附/属図書館所蔵)」
353頁 明治三十三年漱石の子規宛クリスマスの絵葉書(369ペー/ジ参照)」
371頁 明治三十四年「子規の漱石宛最後の書簡(411-412ページ/参照,岩波書店所蔵)」
417頁 明治三十五年「子規の絶筆三句(国立国会図書館所蔵)」
 各年、中扉の次の見開きに「漱石・子規の交友を中心とする略年譜」があり、その次1頁白紙があって奇数頁から書簡本文。「明治三十五年」の略年譜(418〜419頁)には【明治三十六年】を含む。略年譜の次に白紙の頁なく、420〜422頁「付録1 子規の死を知り虚子に宛てた漱石の手紙」、423〜424頁「付録2 無題」は明治36年2月の子規追悼の文章。
 425〜480頁「注」、481〜500頁粟津則雄「解説」、頁付があるのはここまでで、次に〔編集付記〕に「岩波文庫(緑帯)の表記について」、裏は白紙、次に奥付、裏「読書子に寄す」、目録は「'02.7.現在在庫 A-1(〜4、E-1〜2)」、「岩波文庫の最新刊」の「2002.9.」「2002.10.」。