瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

山本禾太郎『小笛事件』(3)

 前回の記事を上げた翌々日、創元推理文庫『日本探偵小説全集11 名作集1』を借りて来ました。
 確かに、これを読むと被告・弁護側の迫力に圧倒されそうです。
 そこで、通読するのは後回しにして、敢えて山下武「『小笛事件』の謎」を読んだだけの、素人考えを先に述べて置こうという気になりました。
 私がこの事件に心惹かれるのは、先入観の問題だと思ったからです。
 そしてそのことは、恐らく『小笛事件』を通読するよりも、山下氏の論考と絡めて説明した方が、筋を通しやすいように思ったのです。
 当ブログでも、文学研究についてですが、2013年2月3日付「謬説の指摘(1)」等で、大家が思い付きで述べたような説が、殆ど検証もされないまま通説・定説となっていることを指摘して来ました。――A教授説とB教授説が先行研究としてある場合、A説とB説は両立しえない、つまりどちらかが成り立つ場合、もう一方の説は成り立たなくなる場合であっても、その両説の尤もらしいところを採って若干の新味を加えた折衷案C説が出される、などという気色の悪いことも少なからずあります。つまり、先行する偉い人の意見、尤もらしい意見が、後から同じものを眺める人にとって先入観のようになってしまって、きちんとした批判がなされにくくなるのです。但し、実例を全て挙げる訳には行かず、かといって少数挙げると特定個人を痛烈に批判するような按配になってしまいますから「あるある」と云って殆ど具体例を示していないのですけれども。

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 さて、9月1日付(2)の最後に予告した、山下氏の挙げている疑問点を見て行きましょう。
 VI章(209頁12行め〜213頁10行め)で、山下氏は「探偵小説界の大先輩甲賀三郎の意見」に「注目」します。甲賀三郎(1893.10.5〜1945.2.14)は山本禾太郎『小笛事件』刊行を受けて「ぷろふいる」昭和11年7月号に発表した書評「小笛事件」にて、小笛は他殺つまり被告が犯人であるとした「検察官と一審の裁判長」が「小南博士の鑑定を唯一無二の証拠とした」ことを批判します。小南博士の鑑定とは、前回事件の概要を説明した際に言及した、被告に不利な消化物と頸部の索溝の鑑定です。その上で、「小南鑑定の当否は別として「厳正中立で冷静なるべき作者が、最初からやゝ片寄った意見を持ってゐる」のは公正を欠く」と指摘します。これは山下氏がII章(189頁11行め〜194頁5行め)に引いている、高山義三「犯罪史的文献」(「ぷろふいる」昭和11年5月号)に「私の御貸しゝた調書に未踏の文学的生命を吹込まれ」云々とあるように、弁護士から提供を受けた資料に基づいている*1執筆したのだからそちらに肩入れするような按配になっている訳です。
 そのことよりも山下氏が「はるかに重大」だとするのは「まったく異なった角度より事件をながめ、“小笛悪女説”を真っ向から否定したとも受け取れる」次のような「甲賀三郎の解釈」です。210頁8〜11行め、2字下げで前後1行ずつ空白にしてある引用部分をそのまま抜いて置きましょう。傍点「」の打ってある字は太字にしました。

《本書は右に述べたやうな、裁判上の重大事件であると同時に、探偵的興味も亦百パーセント/である。就中、小笛が果して自殺を他殺と仮装して、検察当局の眼を欺き、死後被告に復讐す/る心算であったかないかは、最も興味のある点であると思ふ。この点について、私は然らずと/いふ意見を持つが、他の読者諸君は如何にや》(「小笛事件」――「ぷろふいる」昭和11年7月号)


 これに対する山下氏のコメントは、210頁12〜14行め、

 ――遺憾なのは甲賀がその論拠を示さないことだ。もしも甲賀説が正解ならば、一切は単なる無/理心中事件で終ってしまう。難事件の見本のように喧伝された「小笛事件」など最初から存在しな/かったことになってしまうのである。それでは‥‥

というものですが、小笛の死が「他殺と仮装」しない「自殺」であったことになる甲賀説の通りなら「一切は単なる無理心中事件」だというのは単純に過ぎないでしょうか。
 それに「論拠を示さないこと」が「遺憾」だというのですが、甲賀説の論拠の見当を付けることは、そんなに難しいことなのでしょうか。私は最初、山下氏はわざとボケて見せたのかと思ってしまいました。
 しかし、どうもそうでないらしい、本当に甲賀説の論拠の見当が付けられなかったらしい、と分かったとき、私はこの『小笛事件』を支配している先入観の恐ろしさのようなものを、まざまざと感じたのです。(以下続稿)

*1:【2019年4月11日追記】「いる」を削除。