瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

小池壮彦『怪談 FINAL EDITION』(4)

 前回の続きで第七話について。
 現在の東中野駅周辺を見ると、ホームの東側すぐのところで、南北から来た道が線路で途切れていることが分かる。東口改札を出ると、南と北に階段があって、Google mapでもYahoo!地図でも南が「東口1」北が「東口2」と表示されているが、この東口1と東口2の間に踏切があった。東口2ではあまり意識されないが、東口1を出て線路際に道を挟んで位置する中野警察著東中野駅前交番の前に立って辺りを見回すと、ここに踏切のあったことが実感出来る。
 この踏切に関しては、神田川人のHP「東中野の町づくり 情報と住民の声」に転載されている岸恒夫『東中野今昔ものがたり』(2006年12月発行・東中野地域ニュース編集委員会・)8頁、第十二回「東中野駅(その3)」に、「桐ヶ谷の踏切」と呼ばれていたこと、昭和37年(1962)8月5日に廃止されたことが見えている*1
 新宿駅から大久保駅を経て東中野駅までの間、ずっと緩いカーブが続いているが、高架及び土手の上を走っているので、踏切があったとすればここしかない。岸氏の「交通量の増大に伴い開閉機の開閉頻度を増し、これが駅員の殉職や踏切事故につながりました」との記述とも合致する。
 小池氏はまず、中学の頃(昭和50〜52年度)に「北新宿に住む友人のT君」、本書では「当時北新宿に住んでいた友人の田所」から「深夜になると、東中野駅付近のレールの上を、白い女が歩く」という話を聞かされ、その後昭和55年(1980)10月17日の追突事故に際して、「T君の母君」から「魔の踏切」の因縁話を聞かされることになる。東中野駅の東口を出て、坂を下り少し歩くと神田川*2、渡ったところが新宿区北新宿である。

 魔のカーブのあたりには、その昔無人踏切があったという。どこぞの女が飛び込み自殺をして以来、/死亡事故が多発したことから魔の踏切と呼ばれていた。踏切が撤去されてからもその場所は不吉とさ/れ、東京オリンピックの頃に電車の追突事故が起きた時には、犠牲者の祟りではないかとうわさされ/たらしい。


 引用は『東京近郊怪奇スポット』54頁からだが、少し疑問があるのは「無人踏切」としていることで、儘田氏が述べているように、東中野駅は当時既に複々線で、中央快速線東中野駅を通過していた訳だから、駅の脇の踏切が無人では危険極まりない。岸氏の「駅員の殉職」も、踏切番なのではないのか。私も幼時や大学時代に駅の脇にある大通りや商店街に有人踏切が残存していたのを見ている。そういうところでは大抵、遮断機は棹ではなくワイヤーに黄色と黒の縞の札が付いているものだったが。……そう思って本書を見ると22頁「その昔、踏切があった。」となっている。それ以外の内容はほぼ同じだが「過去を知る人の間では、自殺者の怨念が事故を呼ぶと言われた」など、表現をより効果的に改めている。すなわち、3月1日付(2)で検討した本書第五話に同じく殆どそのまま『東京近郊怪奇スポット』を引き継いでいるのであるが、引き継がなかった要素としては55頁上段、魔のカーブを去ってゆく「津田沼行」の写真、これは本書では23頁に駅のホームと蛍光灯の灯る屋根の間をピントの定まらない、すなわち走り始めた恐らく中央総武緩行線の列車の写真になっている。それから〔怪奇現象発生地概要〕に示された「白い女が出没していた」場所は「レール上」だけではないのだが、本書には他の目撃場所が示されていない。「T君の母君」も「深夜に駅の階段にしょんぼり座っている」のを「線路沿いの坂道を下る途中」で目撃しているのである。東口2の方であろう。

*1:なお、Wikipediaの「東中野駅」の項には、「・1935年(昭和10年) - 東口駅前の開かずの踏切(桐ケ谷踏切)の渋滞緩和策として、60m東側に線路下をくぐる迂回路と歩行者用階段を建設。」とあるのだが、これは岸氏が「昭和37年8月5日、日本閣ガード下の迂回路が開通したことで廃止されました。」と述べているのと矛盾する。今は「東中野に生まれ育って80有余年の著者(東中野5丁目小滝町会会長)」岸氏を信頼して置く。もし別の資料で確認出来たら追記することとしたい。

*2:この神田川に架かる鉄橋では、昭和21年(1946)6月4日に走行中の電車のドアが外れて乗客数名が神田川に転落、死亡する事故が起こっていた。