瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

常光徹『学校の怪談』(003)

 3月23日付(002)の続きで、「幻想文学」第60号に掲載された、小池氏による常光氏批判発言について、見て置く。
 「幻想文学」の第60号については、4月8日付「「幻想文学」(1)」に、昨年刊行された東雅夫 編『幻想文学講義――「幻想文学」インタビュー集成』』から関係する記述を抜いて置いた。表紙に「特集 幻想ベストブック19932000」、目次には「【特集】幻想ベストブック1993‐2000」で、まず10〜20頁に須永朝彦山尾悠子の対談「天使と両性具有」末尾に(01/1/14 於須永朝彦氏宅)とある。3段組、1段25行、1行19字。次に21〜66頁が「アンケート<私のベスト3>」で22〜61頁が寄稿者たちによるもので73名、50音順で2段組、1段25行、1行29字。62〜66頁は「読者が選ぶ幻想ベストブック」で11名、3段組。21頁の扉に、

 前回の「幻想ベストブック」特集時に、/順調に行けば次回は一九九九年頃になる/と申しましたが、なんと世紀を越えてしまいました。(順調に刊行されなかった/ということですね……。)対象期間も七/年間と長期にわたり、……

とある。67頁は「幻想ベストブック 分野別・展望 1993‐2000」の扉で、68〜82頁に目次には「座談会」本文には「DISCUSSION」とある「幻想文学、この七年を振り返る」3段組。末尾に(01/2/4 於赤坂・ですぺら)とある。参加者は倉阪鬼一郎小池壮彦篠田真由美高原英理長山靖生南條竹則の6名で、司会進行として東雅夫石堂藍。マイナーなジャンルの、売れない雰囲気をぷんぷんさせるメジャーでない人々によって、ネガディヴで少々自虐的な会話が交わされている。締めは「 それでは八十号の座談会でまた、お会/いしましょう!」なのだが、「幻想文学」は2年後の第67号で終刊となってしまった。
 「分野別展望」の本題はむしろ83頁以降で116頁に至る(特集もここまで)のだが、そこまで一々紹介して行くと長くなってしまうので、ここで切り上げて、この「座談会」にある小池氏の、問題の発言を見て置こう。
 さて、小池氏は68頁下段、冒頭の東氏の発言を受けて一言発しているが、次に発言するのは、ここまでの流れを切るような「 小池さんは怪談の研究者として地道な/仕事を続けてこられて……。」との発言(71頁上段8〜9行め)に応じて、である。ちなみに71頁は左に上から小池壮彦倉阪鬼一郎長山靖生の顔写真と「本誌との関係」が略述されているので、本文は1段に15行ずつ。その、71頁上段10行め〜72頁上段2行め、

小池 九三年ぐらいって一つの区切りがあ/りますね。私はそれまで普通にホラー小説/を読んでて、それだけだったんですが、常/光徹の『学校の怪談』を読んで、これが怪/談の研究だとしたら、ちょっと困るなと思/った。冗談でやってるのかとも思ったけど、【71頁上段】そうでもなかったわけでしょう。民俗学ご/っこみたいに、大学の教授が学生から話を/聞いて、それを全部鵜呑みにしてデータと/して扱うみたいな。だから、ここで幻想文/学を離れて怪談をやらなきゃいけないだろ/うと思った。きっちり記録しておけるもの/はしておかないと、皿屋敷みたいに分から/なくなっちゃうんですよ。あれは江戸時代/の段階でもう分からなくなっていると思い/ますが、今なんか二十年くらいでわからな/くなっちゃう。分かっているうちにやって/おけばいいという話だから、そっちへシフ/トしたんだけれど、それまでは平凡に小説/を読んでたんですよ。
 『学校の怪談』は児童書の分野でブー【71頁中段】ムを巻き起こしたんですよね。
小池 常光が自分が情報の発信者になって/いるのに、そのことに無自覚なんですよね。/児童書でさんざん情報を垂れ流して、子供/がそれを見てまた情報を拡散させている。/その状況をひっくるめて口承文芸といって/いる。でも自分が情報の発信者になってい/るんだからそこを割り引かないといけない/でしょ、『学校の怪談』という本はそのこ/とに無自覚。野村純一とか国学院の学者が/いち早くああいうものを取り上げたという/のは確かに意味があったと思うんですよ、/普通の学者の立場じゃできないでしょうか/ら。だけど、口承がイデオロギーになると/実情からずれてくる。ちょっと見ればその【71頁下段】辺の週刊誌に出ているようなことだから/ね。そんなことがありましたよね。


 文中に出て来る『学校の怪談』は、研究書(Minerva21世紀ライブラリー)のようでもあり児童書(講談社KK文庫)のようでもあって、どちらだか分からない(東氏は児童書を指しているが)。常光氏は最初の報告「学校の世間話」でこそ、話が伝えられている地域や話が生成してきた背景について、ある程度目配りをしていたが、講談社KK文庫ではそのような配慮は申し訳程度になっている。いや、あの形なら下手な配慮など全くしない方が良かったと思う。(以下続稿)