瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

「木曾の旅人」と「蓮華温泉の怪話」拾遺(91)

・TBSラジオ東京RADIO CLUB 編『東京ミステリーとっておきの怖い話』(1)
 昨日まで、二見WAi WAi文庫『東京ミステリーとっておきの怖い話』を取り上げて、60話中10話を紹介して見た。
 ここまでは実は、前置きみたいなものである。――私がこの本を確認したいと思ったのは、2018年8月21日付(38)に引いた、日本の現代伝説『ピアスの白い糸』155~177頁、大島広志「Ⅳ 家族」の3節め、166頁14行め~172頁10行め「父の背中」の最後のコメントに言及されていたからである。
 私は、この大島氏の言い分に、少し引っ掛かったのである。該当箇所を再録して置こう。

 「父の背中」の類話は他に、常光徹学校の怪談2』(講談社)、TBSラジオ編『とっておきの怖い話』(二見文庫)にも収められている。『学校の怪談2』の「おとうさんの肩」は例話の再話。『とっておきの怖い話』の「お父さんの背中」は『学校の怪談2』の転用でありながら、「十五歳のO・Sさんの投稿」として収録されている。「父の背中」は、メディアの中で増幅され世に広まっているというのが現状といえよう。

と云うのだけれども、仮に酷似しているとしても、怪談を(一応『ピアスの白い糸』は研究書っぽい体裁だけれども講談社KK文庫『学校の怪談』は児童書として)商品として扱っている点では選ぶところがないにも拘らず、何でこんな居丈高な言いようをするのだろう、と思ったのである。すなわち、2013年4月12日付「常光徹『学校の怪談』(003)」に引いた、「幻想文学」第60号に掲載された座談会「幻想文学、この七年を振り返る」に於ける、小池壮彦の批判がそっくり当て嵌るケースなのに、と思ったのである。
 2011年5月9日付「岩本由輝『もう一つの遠野物語』(6)」の付け足りにも述べたが、私が院生時代の平成8年(1996)に母校の中学に教育実習に行ったとき、生徒たちの一部は講談社KK文庫『学校の怪談』にどっぷり浸かっているようであった。それから今年1月、久し振りに機会を得て、怪談について高校3年生の女子に、どのような場で怪談を語り、聞き、そして仕入れているのか、2時間弱であったが聞き取り調査することが出来た。詳細は別に報告することにするが、小学校の高学年の頃、毎日昼休みに数人の友人と屋上に通じる階段(もちろん扉は施錠されている)の踊り場に集まって、怪談を語り合っていたと云うのだが、ネタもそんなに続くものでない。そこで、当時、本だけでなくアニメも放映されていて流行っていた『怪談レストラン』*1で覚えた話を使ったこともあったそうだ。友人も、本で仕入れたらしい話をすることがあったそうだ。――昔話の伝承でも、口承だけでなく書承すなわち書物で知った話を語ったものが定着したケースがあることは夙に知られているはずである。
 だから「メディア」の影響力を認めるような書き振りをしながら、「お父さんの背中」については「転用でありながら」と決め付け、「十五歳のO・Sさん」の投稿が剽窃であるかのような書き方をしているのが、どうにも引っ掛かったのである。剽窃ではない可能性も大いにある。すなわち、友人が『学校の怪談』を読んで知った話を典拠を伏せて語り、それを「O・Sさん」が投稿すれば、直接転用していなくてもそっくりになる道理である。いや、仮にO・Sさんが自分の投稿を岸谷五朗に読んでもらいたいと思って、剽窃と云う意識もなく『学校の怪談』から転用してしまったのだとしても、そもそも子供や若者が語っている話を商品にして売っている民俗学者に、そんな批判をする権利があるのか、と思うと、何だか腹立たしくて堪らなくなって来たのである。
 しかし批判をするにしてもとにかく一度、二見WAi WAi文庫『東京ミステリーとっておきの怖い話』を見て置くべきで、これを講談社KK文庫『学校の怪談2』と比較した上で、大島氏の判断の是非を確認しないといけない、と思ったのでした。要らぬ義憤と云うべきですけれども。(以下続稿)

*1:これに常光氏も大島氏も関わっている。