瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

鶴見事故(3)

 3月21日付(2)の続き。

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 日比谷線の脱線衝突事故からの類推、そして鶴見図書館蔵のアルバムに貼付される写真から、上り1両めの衝突位置は3〜4両目の連結部とすべきだというのが、私の見当である。連結部だから僅かcm単位で噛み合っただけなのである。それから、深夜に現場で撮影された写真では、下り電車を突き抜けた上り1両めは、地面に山のように積み重なった残骸にぶつかって止まったようになっている。今のところ、「MSN産経ニュース」の2012年11月9日付「死者161人 鶴見事故50年慰霊法要 安全な鉄道 遺族の願い」に添えられた「このニュースの写真」で閲覧出来る*1。もちろんこれは、上り1両めが突き破った下り車両の一部をそのまま突き出したものなのだが、あれはどの部分だったのだろう。
 前回の記事を書いた後、神奈川新聞の「カナロコ 神奈川発コミュニティーサイト」に、2013年3月26日付「「鶴見事故」から50年 現場を再現したジオラマ完成、JR東日本横浜支社で展示/神奈川」という記事が出た。ジオラマの写真も掲載されており、クリックで拡大も出来る*2、上り1両めが乗り上げているところまでの下り電車の右側壁が、全く損傷していない。しかも、下り車両の、上り1両めが乗り上げている箇所よりも後ろが、何故か大破している。これでは駄目である。とても「完成」とは言えない*3
 現場の写真は当時の新聞縮刷版に多数掲載されている。素人の私でも多数を見比べることで、どれがどの車両を撮したものか、分かったのである。――JR東日本横浜支社から、南の野毛山へ歩いて行けば、神奈川県立図書館があるだろう。あそこに各紙の縮刷版があるはずだから、ジオラマの担当者には現場の概念図で拵えるのではなしに、是非ともどこがどうなって最終的にあのような形になったのかが分かるように「修正」をお願いしたいのである。
 今、ネットで閲覧出来るものに、amanaimegesにある栗田格(1939生)撮影の写真がある。11月10日撮影のもので、救出捜索活動のため、車両が切断されるなどしており、昭和毎日に掲載される当夜の写真とは車両の様子が違っている。これで見ると下り4両めは、前部ドアの両脇の3人掛けシートも残存している。(以下続稿)

*1:この記事を準備していた3月末時点では閲覧出来たのだが、今日確かめて見るに既に記事は削除されていた。リンクは外したが本文はそのままにして置く。【2020年5月30日追記】次の段落に貼付した「カナロコ」から、2013年11月9日付「鶴見事故から50年、今も残る「記憶の傷痕」」を代わりとして上げて置こう。

*2:2020年5月30日追記】リンク切れになっていたので貼り直した。念のため旧リンク「「鶴見事故」から50年 現場を再現したジオラマ完成、JR東日本横浜支社で展示/神奈川」を保存して置く。「クリックで拡大」は出来なくなっている。

*3:産経新聞」の写真を見ても、下り5両めの車体は乗り上げている上り1両めよりも後方(右)は残存しているが前方(左)には何もない。台車しか残っていないからである。