瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

草津線高山踏切オート三輪衝突事故(2)

・「朝日新聞縮刷版」昭和二十六年五月號 No.359・昭和二十六年六月十五日発行(通卷第三五九号)*1
 発生したのが何月か分からないが、三学期ではあるまいと考えて新年度の頭から眺めて行くと、昭和26年(1951)の5月号に出ていることが分かった。
 すなわち、9頁ある前付のうち、【1】頁が「五月の時事日誌」で【2】〜【9】頁が「記事索引」、後者の【5】頁「社會」の「|事 件|」の「【交通事故】」に挙がる12件中3件め、

女生徒八名負傷
   遠足帰りに衝突………一一

がそれであるようだ。
 当時の紙面は夕刊なしで朝刊のみ4頁、縮刷版の9〜12頁が「昭和26年(1951 年)5月3日(木曜日)」付の「朝日新聞」第23419号で、その(三)面、「10版」の10段めに見出しは「女生徒 八名死傷/  遠足歸りに衝突」とあってゴシック体はやや小さい。「記事索引」には「負傷」とあったが「死傷」の誤りである。記事本文を見てみよう。

【大津発】二日午後三時ごろ滋賀/県甲賀郡貴生川町草津線踏切り/で、京都市下京区中堂寺町日新運/送株式会社石井照男運転手(二八)/がオート三輪に遠足帰りの同郡岩/根村菩提寺甲西中学女生徒三年生/八名を便乗させ同村へ連れて行く/途中、上り京都発鳥羽行七四〇列/車にはねられ生徒五名が即死、入/院後一名死亡、二名は重傷を負っ/た。運転手は危篤である。


 年齢の漢数字は小さく、2桁めが右寄せ、1桁めが左寄せ。
 さて、記事では「滋賀県甲賀郡貴生川町草津線踏切り」とあるばかりで、どの踏切か分からないのだが、当時の校長である高木氏の報告により、滋賀県甲賀郡貴生川町高山(現在は滋賀県甲賀市水口町高山)にある「高山踏切」と判明する。
 高山踏切は三雲駅貴生川駅間、草津線の上りが貴生川駅に入る600mほど手前、野洲川の支流・杣川を渡る直前の、左岸の堤防上を走る道路にある。
 場所や写真はyozoのHP「yozo Presents」の「関西の踏切」の「JR・草津線(2) 貴生川-甲西」により確認出来る*2
 ここで不思議なのは、遠足で出掛けていたのがどこだか分からないのだが、とにかく村に帰るべく川上から川下に向かって走行していたとして、踏切の右側、杣川べりは竹藪になっていて、進行してくる列車が見えにくいかも知れない*3が、踏切の左側は、田圃の中の築堤に線路が通じており、Googleストリートビューで見ても非常に見通しが良いことである。すなわち、この事故が左側から進行して来る上り列車との衝突である、というのが不思議なのである。新聞記事と高木氏の報告を合わせることで、状況はある程度明確にはなるが、何故このような事態に立ち至ったのかは全く見えて来ない。エンストか、ブレーキの不調か、前輪が踏切の溝状になった線路に嵌り込んで動けなくなったのか、……。当時、トラックやオート三輪の荷台に人を乗せて運ぶことは普通に行われており、縮刷版を見ていたときもしばしば眼にしたのだが、ここでは加藤事務所のHP「交通事故・交通違反相談所」の2015年09月14日「重大事故の歴史を探る 埼玉県編」を(オート三輪の事故はもちろん他の県でも発生しているが、史上最悪の事故が起こったのが埼玉県であるので)特に挙げて置こう。なお、「滋賀県編」はまだ、投稿されていない*4
 『現代民話考』の回答者・高木氏は法然上人鑽仰会の機関誌・月刊「浄土」第五十巻五月号(第三二五号・昭和五九年四月二十五日印刷・昭和五九年五月一日発行・48頁)16〜21頁に「特別寄稿」として「祇園と花代」を寄せており、氏名と肩書は「高木進正*5/(滋賀県甲西町永照院住職)」となっている。
 ところで『現代民話考』が場所を「甲賀郡甲西町」とするのは、単行本及び文庫版刊行時の地名としては正しいが、新聞記事にあるように、事故当時の中学校の所在地は「甲賀郡岩根村菩提寺」であった。また高木氏は事故当時はまだ住職ではなかったかも知れないが、永照院に起居していたとしてその所在地は「甲賀郡三雲村三雲」であった。その後、岩根村と三雲村が合併して昭和30年(1955)4月10日に甲西町になったのである。すなわち当初は町立中学校ではなく、近隣の町村とともに学校組合を設立して甲賀郡石部町・三雲村・岩根村・下田村学校組合立甲西中学校として開校したので、校名が町名を先取りしていたことになる。開校式は現在地(甲賀郡三雲村針→甲西町針→湖南市針)に校舎が完成した昭和26年(1951)11月に行われているが、それまでの沿革はWikipediaの「甲西中学校」の項や甲西中学校HPの「≪学校の沿革≫」を見てもあまり明瞭でない。高木氏が校長(初代?)であったことも記載がない。なお、甲賀郡甲西町は文庫版刊行後に石部町と合併して現在は湖南市になっている。湖南市と云っても、海に全く接していない横浜市港北区港南区みたいに、琵琶湖とは全く接していない。
 高木氏は「民話の手帖」のアンケート葉書で回答したらしく*6、それは10月2日付「閉じ込められた女子学生(2)」に紹介したようなもので、葉書の記載欄だからあまり詳細な報告は出来ない*7。だから、大体のところは分かるが、細かいことが分からない。すなわち、夢で何を見たのか、実際には立ち合っていない事故発生の瞬間が見えたのか、それとも事故の報告を受けて、事故現場や負傷生徒の入院先、死亡生徒の自宅を訪ねると云った発生後の自らの行動が見えたのか、この記述からは分からない。
 同じ「朝日新聞」でも大阪本社版を参照すればもっと詳細に出ているであろうが、差当り東京本社版の記事により、簡略ながら学校HPでも触れていない事故について紹介し、或いは昭和11年度生れで今年度満80歳になる当時の3年生の証言(事故から65年、もうそろそろ難しくなるであろう)が得られれば、と敢えて投稿する次第である。(以下続稿)

*1:先日、怱卒の間にメモしたので頁数や定価などメモするのを忘れていた。追って補うこととする。

*2:私はここ十数年来、京都・大阪での資料調査を、三重県の親戚宅を拠点として実施しているので、草津線は上り下りとも何度となく乗っているが、これまで高山踏切を特に意識したことはない。朝霧の柘植駅から東海道本線の京都駅まで直通する電車を良く利用するが、参宮線鳥羽駅まで直通運行していたことは知らなかった。今は、柘植駅亀山駅での乗り継ぎが必須である。――柘植駅での関西本線への乗り継ぎが悪く、暗くなった静かなホームで30分以上、数人の客と待たされることがしばしばである。

*3:しかし下り列車が杣川鉄橋を通って近付いて来る音は、聞こえるだろう。

*4:12月3日追記2015年10月05日「重大事故の歴史を探る 滋賀県編」として投稿されていたのを見落としていた。死者数の順に①28名、②7名、③5名(5件)が挙がるが、この事故は取り上げられていない。死者5名の事故は④とすべきで、死者6名の本件が③となるはずである。なお、当時の事故・事件は続報を出さないので、危篤の運転手の生死は不明。

*5:ルビ「たかぎしんしょう」。

*6:まだ初出誌「民話の手帖」を確認していない。

*7:『現代民話考』の長文の報告は、アンケート葉書を使用せず、封書で送ったものと思われる。