瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(28)

 という訳で「中央公論」を見に行きました。
・「中央公論第五十四年第四號/第六百十九號(昭和十四年三月廿三日印刷・昭和十四年四月一日發行・總頁532)
 取急ぎ、端末でコピー画質の誌面を閲覧したので、後日、原本或いはマイクロフィルムで確認しようと思っているのですが、……まだ大学院生だった頃、ある集会で他専攻の院生と親しく話す機会があり、海外に行くことを勧められたことがありました。今はどうだか、当時は国文科で博士号を取得した院生の就職が滞っていて、しかしそんなものは博士号を取らせるようになる前から、それこそバブル崩壊後から滞っていたのですから、みな余計に高学歴に成り上がった上に就職がない、ということになっただけだったので、その点からも私は教授連中を厳しく批判しないではいられないのですけれども、その専任の職にあぶれた連中にとって、非常勤講師の職も多くはなくしかも任期制ということになった中、AO入試やら推薦入試やらで学科試験なしで殆ど勉強せずに入学した大学生の学力が低下して、まぁ勉強させないで入れてるのだから出来なくて当然で、それが厭なら勉強しないと入れなくすればいいのだけれども、諸般の事情で入学させちゃってる連中が、大学の授業になんか着いて行けないから補習をしないといけない、そこでレポートを書かせるための文章講座の補習講師という職が生まれたのを、ささやかな好機と見る者も、博士課程にいて博士論文を書いている者の中にはいた訳です。けれどもそんなものは全然好機なぞではない。文章もまともに書けない連中が国文科で古典など読む訳がないので、そんなもので当座の息は継げても結局どうにもならないでしょう。ですから、私にもそんな話がなくはなかったのですが、今の仕事にも差し支えるし、それに研究職自体を目指さないことにしている私が、それでも研究職に就きたがっている者がなんとしても維持したい肩書「大学非常勤講師」を掠めても仕方がないので、断ったのですが、――その、ある集会でそんな話を出したところ、その院生は「海外に行ったら良いのに」と言うのです。その人が経験者だったのですが、曰く、インドネシアでは広い家に住まわせてもらって、非常に尊敬されるし、生徒たちは向学心にあふれて日本の学生を教えるのとは全く違う、だから日本の三流大学でやる気のない馬鹿な学生の文章添削なんかやるよりか、海外に行って日本語講師をやった方が良いですよ、と。ただ、海外に行ってしまうと、こんな遊びを思い付いて実行出来なくなるので、低賃金でもそこそこ暇のある仕事を、調べ物に至極便利な東京で続けて、頭がボケて身体が動かなくなる前に死んでしまいたいと思っている訳です。
 余計な話になりました。「中央公論」の昭和14年(1939)4月号ですが、まず目次で大宅氏の文章を探したのですけれども、それと同時に、他に「赤マント」に触れていそうな文章はないか、点検して見ました。端末ですと、現物と違ってなかなか全頁をざっと確認する訳にも行かないので(殆ど慣れの問題だとは思いますが)まず目次で見当を付けて、随筆や雑報の類を見て行きます。そうすると、頁付(本欄364)〜(本欄369)の「東京だより」にかなり詳細にこの騒動について書いているのに気が付きました。3段組で1段21行、1行20字、段の間は二重の横線で仕切ってあります。最初の1段(本欄364頁の上段8行、中段21行、下段18行の合計47行)は時候の描写ですので省略して、次の段、本欄364頁の下段19行めから引いて置きます。なお、これまで私が引用を省略した場合2点ダーシ「‥」で示してきましたが、ここでは原文が3点ダーシ「…」ではなく2点ダーシ「‥」を使用しております。

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 この春、東京では『赤マントの佝僂男』と/いふ根もなき怪談が幼き子らの世界で恐怖の/【本欄364下段】話題となつた。小學校から歸つてきた子が玄/關へ上ると同時に『あのねお母さん』と何や/ら息をはずませて興奮した語調で母親に訴へ/てゐる。聽くともなしに聞いてゐると『赤い/マントを着た佝僂の男が夜になると出て來る/んですつて。そして夜、外を歩いてる子供を/見るとつかまへて血を啜*1るんですつて‥‥小/學校の三年と四年と五年の女子の血をすゝる/と癩病が治るんだつて‥‥あら本當よ、先生/も本當だつて云つてたわよ‥‥その赤マント/の佝僂男は癩病病院を脱け出して來たのよ、/きつと。恐いわ‥‥』といふのである。


 無記名で編集部の人なのでしょうけど誰が書いたのか分かりません。
 まだ続くのですが、ここで一旦確認をして置きましょう。「小学校の三年と四年と五年の女子」という年頃は、10月31日付(10)及び10月30日付(09)で見た小沢信男「わたしの赤マント」の「あずき婆ァ」を想起させます。そして「癩病」というのは、小沢氏も10月31日付(10)で見たように「ハンセン?」と匂わせていたのですが、10月26日付(05)で見た北杜夫『楡家の人びと』に同じです。まだ紹介していない新聞記事で裏付けは取れていたのですが、これで「癩病」説の存在も確実になりました。「先生も本当だって云ってた」というのは、11月12日付(22)及び11月13日付(23)に紹介した「やまと新聞」「萬朝報」の記事にあった「其のデマ伝播の蔭には市内各小学校及女学校の先生が子供の夜遊び警戒の意味からか雪女郎の手で子供に注意して居たこと」――夜歩く怪人のデマを夜遊びの戒めに教師が利用したことの実例ということになります。

*1:ルビ「すゝ」。