瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(161)

・「經濟雜誌ダイヤモンド」第二十七卷第七號(2)
 昨日の続きで、七二(1176)頁を見てみましょう。
 5段組で、匡郭右辺の外、中央やや下に漢数字でこの号の頁、下部に横転して括弧に第二十七巻通しの頁が入っています。まづ3行分取って2段抜きで、稲妻型の破線の飾り枠に、上部に宋朝体で大きく「旬評 近 藤  操」と入ります。
 1段めはまづ2行取りでゴシック体で本文より僅かに大きく「   赤マント事件の示唆」と題して、以下、5段めの右側16行分に「武田證券株式會社/大阪市東區北濱一丁目」の広告がある他は全て本文。
 それでは、2段め1行めまでの1段落めを抜いて置きましょう。

◇二月の中旬頃から、東京の女學/生その他の若い婦女子の間に、口/から耳への奇怪な流言が傳播しつ/ゝある。或ひは赤裏のマントを着/た傴僂男が、夜闇に乘じて小兒や/婦女子を襲ふといひ、それが天然/痘患者に對する迷信的治療のため/に生血を取るのだとも傳へられ、/或ひは千人とか百人とかの若い女/の生血を啜ることが、癩病治療に/特效があると迷信した妙齢の女性/の犯行だともいひ、その手段とし/ても鋭利な刄物で不意に喉首を狙/ふとか、吹矢で射止めるとか、種/々の説がある。二人の若い婦人と/一人の警察官が殺されたといふ被/害者の數だけは、不思議に一致し/てゐるが、その犯行の場所は、品/川、麻布、板橋、飛鳥山等々、極/めて不確かだ。色々綜合して見れ/ば、辻褄が合はなくて、取り止め/のない流説であることが分るけれ/ども、とにかく人命に危險がある/といふので、内々繁師から注意し/た學校もあり、子供を持つ家庭で/は、そんなこともあるまいと云ひ【1段め】ながらも、一應は警戒する。


 この文章、末尾(5段め16行め)に「(二、二五)」とあって、昭和14年(1939)2月25日執筆、これまで紹介してきた新聞記事とそう変わらない時期のもので、まさに「旬評」と云うべきものなのですが、これまでに見てきた説明とは異なる部分が少なくないので、少々面食らっております。が、とにかく少しずつほぐして行くこととしましょう。
 差当り、病気との関係ですが、まづ「天然痘」との関係は、赤が天然痘除けになると云う俗信と絡めて、2013年12月2日付(42)に引いた昭和14年2月25日付「報知新聞」第22336号(正午版)の「赤マントの正體?」や、2013年11月20日付(30)及び2013年11月21日付(31)に引いた大宅壮一「「赤マント」社會學」に見えていました。
 そして「癩病」も同じ「赤マントの正体?」及び大宅壮一「「赤マント」社會學」に見え、後者の掲載誌「中央公論昭和14年4月号の「東京だより」には、2013年11月18日付(28)に引いた、小学生の女子の「赤いマントを着た佝僂の男が夜になると出て来るんですって。そして夜、外を歩いてる子供を見るとつかまえて血を啜るんですって……小学校の三年と四年と五年の女子の血をすすると癩病が治るんだつて……あら本当よ、先生も本当だって云ってたわよ……その赤マントの佝僂男は癩病病院を脱け出して来たのよ、きっと。恐いわ……」との発言が記録されています*1。これは2013年11月19日付(29)に推定したように昭和14年11月20日(月)のことと思われ、「二月の中旬頃」の発生直後のものです。後年のものですが、北杜夫『楡家の人びと』も、2013年10月26日付(05)に引いたように「「赤マント」と呼ばれる癩病患者の怪物」としていました。
 ところで、ここにはっきり女性、しかも「妙齢の女性」とする説が、癩病と絡めて見えています。女性説については2014年2月21日付(121)に見たように、これまで確かなものを見ていませんでした*2が、流行当時、既にあったことが分かるのです。(以下続稿)

*1:2017年6月7日付「松本清張『砂の器』(3)」に関川夏央『昭和三十年代 演習』を批判しましたが、社会全体に拡がるこのような恐怖心の刷り込み、それから2011年9月12日付「美内すずえ『ガラスの仮面』(7)」に述べたような仏教文化(因果応報説)を背景に考えないと、何故そこまで出自を隠したがったのか、理解出来ないと思う。

*2:2013年11月20日付(30)の註に触れた本田和子の説を(その後、老婆とする文献に接していなかったこともあって)放置していました。近々確認の上紹介したいと思っています。