飲食店の女性が怯えていたという回想を遺しているのは、国語学者の大野晋(1919.8.23〜2008.7.14)です。次の記事はその日に読んで、切り抜いて置こうと思いつつそのままにしてしまい、先月記憶を辿って縮刷版にて確認して来ました*1。
「朝日新聞(夕刊)」2006年10月4日(水曜日)付10面(2版)「文化」面の「こと場」欄に「大野 晋さん/国語学者」として、「先月18日、東京都内で開かれ」た「87歳で亡くなった詩人宗左近さんをしのぶ会」での挨拶のうち2つの話題が紹介されています。宗左近(1919.5.1〜2006.6.20)との関係については「大野さんは旧制一高以来の親友。」とあります。
横組み。1つめの話題(10行)は省略します。一部ゴシック体になっています。
「僕らは優等生ではなかったが、/成績にしがみつくやつは軽蔑した。*2/困窮の中でも志をもち、必死で生き/ようとした。夜になると赤マントの/男が女性の生き血を吸うといううわ/さがあり、酒場の女性が怖がったの/で、僕らはアパートまで護衛した。/あれはかけがえのない僕らの青春。/その花園の中で宗君も生きていた」
これは如何にも11月5日付(15)に紹介した、昭和14年(1939)2月22日晩の銀座裏の関西料理店の情景と似ているように思えます。数えで三十五歳の岩佐氏は呆れてしまってお終いでしたが、数えで二十一歳の大野氏は護衛を引き受けております。
その後「赤マント」の噂がぶり返すようなことが、なかったとは言えませんが、やはり昭和14年2月下旬のことのように思えるのです。
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ここで問題があるのは、これが「詩人宗左近さんをしのぶ会」で語られていることです。宗氏と大野氏は同年生なのですが、宗氏は二浪して昭和14年(1939)4月に一高に入学していますので、学年が違うのです。宗氏は留年して2年生を2年続けていますので、学年はさらにずれています。そういえば2011年1月21日付「村松定孝『わたしは幽霊を見た』考証(06)」にて、学年の違う「親友」に疑義を呈したこともありました。
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大野氏の名前が見えるのは東大在学中の「学徒出陣」について述べた中に「わたしの友人では身体の悪い、あるいは悪くした数名」が残ったとして挙げる4名の中にあるのが最初で*5、一高時代の交遊はやはり語られていないのですが、宗氏が所属していた一高の「国文学会」には『孤高』によると大野氏も所属していましたので、そこで知り合ったのでしょう*6。しかしそうだとしても、昭和14年2月ではまだ宗氏の一高入学前ですので「赤マント」の思い出を共有出来るはずがないのです。
それでは昭和14年度以降のことなのでしょうか? そこで気になるのが、記事の最後の一文「その花園の中で宗君も生きていた」とその前の「あれはかけがえのない僕らの青春」です。どうも、宗氏とは無関係の、しかし一高時代の忘れられない思い出を語って、「その」同じ「花園の中」に「宗君」もいたのだ、といった文脈のようにも読めるのです。いえ、諸条件を勘案するに、そう読むのが一番無理がないと私には思えます*7。
こうしたことが回想を扱う際の注意点としてあって、ですから時期を明確に出来る分については出来る限りはっきりさせて置く必要があると思うのです。誤った説に引き摺られて体験者本人が時期をズラしてしまうことは、前回見た「わたしの赤マント」の初出で「昭和十五年」としていたこと、その他でも確認済みです。
* * * * * * * * * *
大宅氏の「「赤マント」社會學」の続きも引いて置くつもりだったのですが、ぐだぐだと長文になりましたので、今回はここまでにして置きます。(以下続稿)
*1:尤も、切り抜いていたとしても見付けられなくて、縮刷版に当たることになったろうと思います。
*2:ルビ「けいべつ」。
*3:本文の32〜94頁「第二章 山の手」を見るに、大野氏は東京開成中学校を50頁2行め「五年生の一学期が終わったところで‥‥一高の受験に備え」て退学していますので、記憶違いとしても前年度の可能性はありません。それ以前ではマセ過ぎでしょう。
*4:末尾に(『炎の花』所収・一九七二年七月ニトリア書房)とあり。未見。
*5:次が昭和20年5月26日の2度。
*6:何か回想があるかも知れませんが、未見。
*7:大野氏が宗氏もいたように記憶違いしていた可能性も、なきにしもあらずですけれども。