瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(364)

 昨日の続き。
・關寛之『日本児童宗教の研究』(6)
 赤マント流言の時期は、長らく明確にされていなかった。年表類にも載せていないものが多い。
 当ブログで拾い集めて来たように、少なからぬ数の体験者が回想を残している。正しい時期(?)に回想している人もいるが、前後にズレている人も少なくない。それもこれも、回想に当たって参照するような歴史年表類に赤マント流言が載っていないため、曖昧な記憶で時期を決めてしまったからであった。
 そんな中で、2013年10月24日付(003)に見た、松谷みよ子『現代民話考』に載った、赤マント流言を、記憶違いと云うより計算違いで昭和11年(1936)昭和12年(1937)頃のこととしてしまった報告に注目が集まり、2014年7月11日付(139)等に述べたように、以後の回想にも影響を与え、正しい時期を示した文献がなかった訳でもないのに、修正されることのないまま、誤った時期に基づいて恣意的な解釈を展開した論者の意見が、何となく通説であるかのような扱いになる状態が長らく続いていた。
 赤マント流言は、近藤操、大宅壮一、式正次が述べているように新聞報道に規制が掛かったため「東京朝日新聞」や「讀賣新聞」は殆ど取り上げていない。年表類に赤マント流言が記載されなかったのは、戦前から縮刷版を刊行していた「東京朝日新聞」が、索引に引っ掛からないコラムでしか赤マント流言を取り上げなかったことの影響が大きいと思う。しかし他紙、特に「都新聞」は盛んに取り上げていたし、「経済雑誌ダイヤモンド」「サンデー毎日」「中央公論」「三田文学」と云った雑誌の時評や随筆、川柳や短歌にも、昭和14年(1939)のうちに取り上げられている。
 ところが、関氏のような、久しく迷信の研究を続け、その伝播に大きな関心を持っていた人物が、まさにその研究期間中に「赤マント」と云う「急激伝播型」の「迷信」すなわち流言の実例に遭遇しながら、その時期を誤っていると云うのは、一体どのように解釈すれば良いのだろうか。
 関氏は、先にも触れた本書「序説」の「A 研究の目的」の「3 研究の經過」では、その冒頭、八頁11行め~九頁2行めに、

 本論文は、主副兩研究から構成されてゐる。その第一は、『日本兒童の宗教意識の研究』と題して、昭和四年乃至六年度に帝國/學士院の研究費補助を受けて、昭和十一年に完了した八箇年間の研究であり、その第二は、『我國に於ける迷信の研究―兒童宗/教の發達と迷信との關係』と題して、昭和十二年乃至十四年度に同じく帝國學士院の研究費補助を受けて、昭和十八年に完了し/した七箇年間の研究である。後者は前者の補遺として行なつたもので、從つて、此等兩研究は、前後十五箇年に亘つて行なつた/一の連續した研究である。最初、前者を完了した時、其研究結論として、兒童宗教は、兒童心性の特質から、頗る原始宗教に類/似して、呪や迷信の特質を有し、一方に、兒童に特有な迷信の側面をもつと共に、他方に、成人に特有な迷信の側面をももつこ/とを見出だし、斯かる狀態の兒童宗教から、後に、成熟宗教が發達し開展するとすれば、成人迷信は兒童宗教の發達に如何なる/關係を有するか、兒童宗教に於ける兒童に特有な迷信の側面と成人に特有なものとは如何なる關係にあるか、此等はまた兒童宗/【八】教の發達上如何なる地位にあり、それと如何なる關係を有するかなどの問題を、更に深く研究し闡明すべきことの必要に逢著し/て、後者の研究を補遺したのである。

と述べていた。本書の4年前、昭和15年(1940)9月に刊行された同盟通信社調査部 編『國際宣傳戰』の「G デマの傳播」では、2020年5月13日付「同盟通信社調査部 編『國際宣傳戦』(10)」に見たように関氏の研究を「最近發表され、學界の注目を惹いてゐる新學説に、東洋大學心理學教授關寬之氏の「走行説」がある。」と特筆しており、続く説明と実験例・実例は「赤マント事件」を除いて本書の、これまで見て来た章節の要約と云うべきものとなっている。『國際宣傳戰』が「赤マント事件」に続いて取り上げている「目なし達磨」と「銭洗弁財天」は、本書に恐ろしく詳細な伝播経路・時期の調査が報告されている。そして昨日引用した本書「5 迷信の伝播に關する學説の批判」の節の書き振りからすると、関氏は赤マント流言についても細かいデータの蒐集を行っていたように思われるのである。
 しかしながら、本書にはそのようなデータは全く報告されていない。かつ、本書にある、僅かな赤マント事件に関する記述を繋ぎ合わせると昭和11年(1936)から東京市附近で拡まり昭和12年(1937)に「放送局は放送に依つて、これを防遏した」ことになるのだが、これは他の文献に全く裏付けが得られない。
 昭和14年(1939)当時の報道や文芸作品での反応は、全てではないが当ブログに粗方取り上げている。これらの文章には、昭和11~12年に類似の事件があったことに全く触れていない。「巡査は國民學校*1を巡廻し、放送局は放送に依つて、これを防遏した」といったことがつい2~3年前にあったのに、誰1人触れないなんてことがあるだろうか。いや、この、関氏の説明する当時の状況こそ、昭和14年の事件にそっくりではないか。
 そうすると、同じ事件を別々の年にしている可能性が高くなる訳で、どちらが正しいかと云うに、新聞報道や日記で裏付けられる昭和14年が正しく、同時代資料の裏付けの得られない昭和11~12年は誤りと云うことになるだろう。もちろん、これほど新聞雑誌に取り上げられ、実際にラジオ放送を聞いた人の証言も得られる昭和14年の事件について、関氏が全く触れていないことも、この判断の根拠の1つとなるであろう*2
 ――回想と云うものは、時間が経てば経つほど間違いが多くなる、と云う訳ではないのだ。昭和19年(1944)に5年前のことを書いて、誤るのである。
 別に不思議なことではない。2月23日付(358)に見たように、水島爾保布が1年8ヶ月前の赤マント流言を、その倍くらい経っているかのように回想していたのと同様に、このような、一時的に広まってあっと云う間に収束してしまった流言は、実際以上に昔のことのように感じられてしまうのだろう。水島氏は4年前の笊で酒を買いに来る老人の話を「五六年前」としていた。関氏が5年前の赤マント流言を7~8年前としていたのと符節を合せるかのようである。
 同様に、同じ地域に住んでいる(当時住んでいた)とか、当時その学校の生徒(職場の職員)だったとか、いや、現場に居合わせたと云ったことだって、回想の正しさを保証しない。――こう云うと、新聞や日記だって正しく書かれているか分からない、と云う反論があるだろう。確かにそれも一面的な観察に違いない。しかし、時期に限っては、確実なのである。
 だから、その手の傍証のない回想は、仮令当事者だとしても、幾ら具体的で尤もらしくて辻褄が合っているとしても、そのまま信じる訳には行かないのである。特に時期を間違えた回想は、その間違って決定した時期に引き摺られて回想の内容を捻じ曲げてしまっている可能性が高い。私が回想の時期と年齢・学年に特に注意を払う理由は、其処にあるのである。
 ところで私が本書を取り上げるのをしばらく躊躇した理由は、2月24日付(359)に述べたように、本書が大部でパソコン画面での閲覧に根気を要することが、1つ、挙げられる。本書の「目次」は一一頁あって、篇・章・節・項まで一々挙げ、附録や挿畫の図表名まで挙げてあるのだが、私が本書の存在に気付いた2020年当時は目的の頁にジャンプするにも国立国会図書館デジタルコレクションの次のような簡略な「目次」に頼るしかなかった。

標題
目次
獻呈之辭/卷頭1
自序/3
凡例/1
目次/1
姊崎正治博士‐關寛之君の「日本兒童宗教の研究」/卷尾1
序説/3
I 兒童宗教の發達/101
II 兒童宗教の發達と迷信との關係/273
兒童宗教の構造、特質及び類型/391
IV 兒童宗教と原始宗教/515
V 兒童宗教の規制/565
VI 兒童宗教の豫備研究/647
結論/733
附録


 しかし、「全文検索」機能が追加されたことで、その文言のある頁に自在に移動出来るようになった。尤も、2020年当時私が見付けていた3箇所のうち、画像の状態の良くない三三八頁は全文検索ではヒットしない。文字が潰れたり、異体字などを誤読しているところも少なくない。従って、全文検索機能に頼り過ぎることもまた大変危険である。しかし格段に情報を引き出し易くなったことは確かである。
 もう1つ、躊躇した理由は、こんなに近い時期のことを誤るのだろうか、と云う点である。いや、上述のように誤りだと思っている。これは同様に誤っている水島爾保布の随筆を見付けたことで、指摘し易くなった。同盟通信社調査部 編『國際宣傳戰』の「G デマの傳播」は関氏の論文に基づいて書かれているらしいのだが、こちらは「赤マント事件」の時期を「昭和十三年十一月から翌年二月にかけて」としていた。「昭和十三年十一月から」や「流言の本源」とされる場所については根拠を開示して欲しいところだが、昭和14年「二月」に「巡査は小学校を巡廻し、放送局は放送に依つて、これを防遏した」と云うことであれば、私の蒐集した資料と矛盾しない。いや、当然「目なし達磨」や「錢洗辨財天」と同様に、本書にその詳細を載せるべきだったと思うのである。しかし、何故かそれが果たされず、剰え記憶に頼って書いて、時期を間違えているのである。
 さて、次の私の課題としては、『國際宣傳戰』の元になった関氏の論文の探索、と云うことになる。更には、2月25日付(360)に西脇良が存在を指摘していた本書の自筆原稿、さらに存在する可能性を示唆していた自筆メモに赤マント流言の記述がないか、と云うこと、或いは、向野康江『関衛研究』上巻83頁5行め~84頁4行め、

 筆者は、平成元年(一九八九)八月一八日から二〇日にかけて、小浜町教育委員会の吉田基/善氏の協力を得て、田中久良氏の案内で、関家跡に唯一のこる網納屋の調査をおこなった(註/23)。調査目的は、関衛の遺品およびその弟で心理学者である関寛之の遺品から関衛と関連す/る事項を探ることにあった。その結果、明かになったのは数百冊以上におよぶ関寛之の蔵書、/日記とメモ類、関家に関係する人々の多数の写真である。大半は関寛之の遺品につきた。
 寛之は貴重面な性格であったらしく、毎年日記を書きのこしている。大正六年(一九一七)/から昭和三七年(一九五二)の晩年まで書きつづけることを怠らなかった。戦後、昭和二一年/(一九四六)の全く物資の不足していた時代にも、印刷済みの藁半紙の裏を綴って日記とし、/【83】かなり先が丸くなっていただろうと推測できる鉛筆で、詳細に日事が書きのこされている。こ/れらの寛之の遺品より衛の人物像を探りだすことは、今後の課題になるとしても、衛が最も活/躍順調であった時期である大正七年(一九一八)から大正一三年(一九二四)までの日記は見/あたらなかった。‥‥

とある日記の昭和13年から14年に掛けての記述を、確認したいと思っているのだけれども、向野氏、西脇氏はこの辺りの調査を、どの程度進めているのだろうか。(以下続稿)

*1:「序説」の「C 研究の方法」九二頁13行め~九九頁「4 資 料 の 蒐 集」に調査地域について説明し、七五五頁18行め~七五七頁14行め、註(74)に都府県毎に、資料蒐集に協力した学校名や学校+教諭名などを列挙している。そして七五七頁13~14行め「‥‥。前記の人々の職名は當時のもので、今は變はつてゐる人もあらう。/それに、當時の小學校は、これを國民學校に改めて記した。」とある。もちろん、当時はこれが一時的な改称になるとは思っていなかったからである。

*2:2013年11月7日付(017)岩佐東一郎『くりくり坊主』を引いて触れたように、昭和14年(1939)夏頃には以前流行した「幸福の手紙」が再流行する。これは新聞・雑誌にも取り上げられているが、関氏は何故かこの昭和14年夏の「幸福の手紙」にも触れないのである。三〇〇頁1行めに「幸福の手紙」を挙げ、その註、七八三頁20~21行めに「(23)大正十一年一月中旬の頃、『幸福の手紙』といふものが流行して、これを受取つた者は、他の誰かに同文の葉書を出さないと悲運が來ると、迷信した。米國から/  傳はつたといはれる。(富士川游博士:迷信の研究。第四九頁)。」と説明して、まさに本研究遂行中の流行に触れていない。