瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(339)

 昨日まで先崎昭雄『昭和初期情念史』を取り上げたのは、例えば Amazon 詳細ページに引かれる、データベースの内容紹介が検索で引っ掛かったからであった。

内容(「BOOK」データベースより)
女性史と児童史を探る。お葉さん阿部定さん黒ヒョウ赤マント千人針。美女が走る西へ北へ。由紀夫クンの幼少期etc。
内容(「MARC」データベースより)
7日間で終わった昭和元年、「のらくろ」人気、日本を脱出する女たち、阿部定事件、敗戦…。昭和20年までの世相を愛惜をこめて語る。


 さて「目次」を見るに、1月25日付「先崎昭雄『昭和初期情念史』(1)」に示した通り、92~97頁に「第8章 黒犬・どくろ・赤マント」なる1章がある。しかし私は東京で赤マント流言が行われたのは昭和14年(1939)2月下旬頃と考証しているので、大体年代順に進めているらしい本書で「第6章 昭和五年は〝女の年〟だった」と「第9章 昭和七年、「大正」の絶命」の間に挟まっていることに奇異の念を覚えた。
 果たして「第8章 黒犬・どくろ・赤マント」は、赤マント流言を取り上げた章ではなかった。92頁2~3行め、

 昭和六(一九三一)年一月、『少年倶楽部*1』新年号から田河水泡の連載漫画《のらくろ》/が始まった。

と、やはり年代順に、昭和6年(1931)に始まった『のらくろ』から書き起こす。
 そして『のらくろ』とその作者田河水泡(1899.2.10~1989.12.12)について述べ、田河氏と本書の別の箇所でも登場した平林たい子(1905.10.3~1972.2.17)との同棲に触れ、阪本牙城(1895.12.1~1973.8.8)の『タンクタンクロー』が面白かったことにも触れてから、95頁6~12行め、先崎氏は漫画から紙芝居へと話題を変える。

 黒い野良犬・のらくろが、不況と戦争を反映し、またそれらを先取りしたような感じで*2/登場したころ、やはり不況の中から生まれたような紙芝居が巷*3の片隅に、あるいは路地か/ら路地へ、そしてまた原っぱの一本松の下などに進出していった。
 そして下町の一隅*4にささやかに店開く駄菓子屋もまた、不景気がかえって幸いしてその/安直さゆえにいっそう近所の子どもたちの人気を得ていた。
 加太こうじ氏は紙芝居のことを幾つかの本に書いているが(たとえば『下町で遊んだ頃』/教育研究社)、それらの文章を拾いながらまとめてみると――


 加太氏の紙芝居の本と云えば、当ブログ2016年8月9日付「加太こうじ『紙芝居昭和史』(1)」以来しばらく検討した『紙芝居昭和史』が代表作だと思うのだが、残念ながら先崎氏は参照しなかったらしい。
 すなわち、この章の題「黒犬・どくろ・赤マント」の「黒犬」は『のらくろ』で「どくろ・赤マント」は『黄金バット』なのである。
 そして、紙芝居屋が増えた理由とその最初のヒット作『黄金バット』に関する加太氏の説明を要約してから、先崎氏は初代『黄金バット』の絵を担当した永松健夫(1912.3.1~1961.11.17)に会ったときのことを回想する。96頁9~15行め、

 その永松健夫という紙芝居の〈天才画家〉に、私は一度だけ会っている。ごく若いとき、/当時の文京出版という小出版社で少年雑誌の挿絵原画を受け取ってくる仕事をほんの一時/期やったことがあるが、あれは東武線の梅島だったか、永松健夫(本名 武夫*5)の家へ絵/をとりに行ったのだった。そのとき《黄金バット》の話が出て、「へえ、この人があの絵/をかいた元祖か」と内心おどろいたのを思い出す。若かった私の目では穏やかな初老の人/という印象に映ったが、帰りに駅への近道を案内しながら途中まで送ってきてくれたっけ。/(永松氏は昭和三六〈一九六一〉年没四十九歳)


 文京出版の少年雑誌は「少年少女譚海」であろう。戦中に廃刊になった、博文館から出ていた同名の雑誌(1920.1~1944.3)の後継と云うことになるのであろうか。昭和24年(1949)4月創刊、昭和28年(1953)の恐らく1月号から「譚海」に改題され、同年7月の夏季特別号では版元が譚海出版社になっている。Hiroshi Okazaki のWebサイト「弖爾乎波・てにをは」に拠れば昭和29年(1954)3月号まで出ているようだ。――私の父(1938.2.24生)が少年時代「譚海」と云う雑誌を愛読していたと言っていたが、年齢からして博文館版ではなくこの戦後の文京出版の「譚海」である。
 続く『黄金バット』に関する先崎氏のコメントそしてこの章の纏めも、一応抜いて置こう。97頁1~12行め、

 黄金バットは、顔は金色のドクロ仮面、姿はサーベル片手の中世の剣士スタイル、それ/に真っ赤なマントを羽織った、怪人である。
 幾度も見たはずなのにその内容はほとんど覚えていないが、いずれ正義の味方だったの/だろう。戦後の電気紙芝居(テレビジョン)の《月光仮面》やアメリカ製《スーパーマン》/のはしりだったような感じもするが、どうだろうか。*6
 ところでその赤マントだが、赤は血と炎の色であり、ナポレオン時代の軍服が赤だった。
 赤マントひらひらの黄金バットと黒毛むくむくののらくろ*7とが登場したこの昭和五~六/(一九三〇~三一)年という両年は、両九月にそれぞれ米価大暴落と満州事変とが突発し/ている。
 食糧問題をはじめとする社会的経済的不安がひしひしと迫る中、赤い鮮血と火炎と黒鉄*8/に彩られる日中十五年戦争が、日本軍閥と財閥と官界と死の商人との謀略で開始されてい/たのである。


黄金バット』が赤マント流言にどの程度影響を与えたのか、私は未だ判断を保留している。先崎氏も別に関連付けていない。いや、そもそも加太氏も関連させて述べていなかった。
 さて、加太氏は2013年10月25日付(004)等に抜いて置いたように、赤マント流言の発生を「なぜならば、デマは、東京の日暮里駅近くの谷中墓地に隣接したあたりで、少女が暴行を受けて殺害された事件から発していた。」等と述べていて、この事件もまだ十分な裏付けを得ていないのだけれども、その谷中墓地(谷中霊園の旧称)の南南東に隣接する上野桜木町に生れ育った先崎氏が、満9歳の頃に流行した赤マント流言に全く触れていないとしたら誠に奇妙だと思いながら先へ読み進めてみると、私が見当を付けていた時期辺りの記述に、これまで私が発掘した新聞報道とは少々違った形でこの赤マント流言を取り上げていたのである。次回、その記述を取り上げて検討して見ることとしよう。(以下続稿)

*1:ルビ「(ク  ラ  ブ)」。

*2:「不況」と「戦争」また「それら」に傍点「ヽ」あり。

*3:ルビ「ちまた」。

*4:ルビ「いちぐう」。

*5:ルビ「たけお 」。

*6:「はしり」に傍点「ヽ」あり。

*7:のらくろ」に傍点「ヽ」あり。

*8:「赤」と「黒」に傍点「・」、また「鉄」にルビ「がね」。