瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(210)

武田百合子『ことばの食卓』(3)
 昨日の続き。
 小児性愛の気味のある牛乳屋が登場するのはここまでである。
 ①20頁5~12行め②21頁9行め~22頁2行め③21頁9行め~22頁2行め④179頁5~12行め

 まわってくる紙芝居屋は、二人ともが「黄金バット」をやっていた。小学校の|北口/の裏\門を出た先の道に、大きなお屋敷の塀が長々と続いていた。昨日の夕方、|裏門の/ところで\遊んでいたら、赤いマントの男が塀すれすれに向うの方へ駈けて|行った、と/友達が言う。\その話を聞くと、赤いマント、黒の裏をひるがえして飛|ぶように行く怪/人の後姿と長い塀\とを、もう自分も昨日の夕方に見てしまった気|がしてくる。赤マン/トが振り向いたとき、\牛乳屋の顔だった、と言う友達がいた。|【②21】そうじゃない、あの牛/乳屋は人さらいだったので\牢屋に入れられている、だから、|この頃来ないのだ、おか/あさんがそう言った、と言う友\達がいた。


 「あの牛乳屋」が来なくなって、牛乳はどうしていたのだろうか。
 それはともかく、紙芝居が「黄金バット」だったために、赤いマントの怪人の幻影を見た友達が現れた、と云う風に読める。しかし複数の友達が見ているようである。少々普通でない牛乳屋に対して、大人たちが確かめもせずに得体の知れない者としてあらぬ噂を述べていた情況は相変わらずである。そして武田氏は、「黄金バット」の強烈な印象からただちに、怪人の姿を「見てしまった気がして」しまうのである。
 さて、ここで問題になって来るのは、この話はいつのことか、と云うことだが、8月5日付(208)に引いた鈴木修 編「武田百合子略年譜」の続きを見て置こう。『あの頃 ――単行本未収録エッセイ集』512頁11行め~513頁4行め、

一九三八年(昭和十三) 十三歳
四月、神奈川県立横浜第二高等女学校入学。【512】
 
一九四二年(昭和十七) 十七歳
八月、長兄・新太郎結婚。この頃、樫本みつ、鈴木家を辞去。
 
一九四三年(昭和十八) 十八歳
三月、同女学校卒業。学校の紹介で横浜の図書館に勤務。・・・・


 武田氏が栗田谷尋常小学校を卒業したのは昭和13年(1938)3月、4月に神奈川県立横浜第二高等女学校(現在の神奈川県立横浜立野高等学校)に入学している(3回生)。横浜にも赤マント流言が広まっていたことは、小沢信夫の小説「わたしの赤マント」に、2013年10月28日付(07)に引いたように雑誌への投稿の形で紹介されているものがあるが「葉山」在住の「鷹司由紀夫」は誰のことなのか、見当をつけられないままである。かつ「横浜の山手小学校」と云うのも現在、見当たらない。8月5日付(208)に述べたように、空襲で焼失して統廃合されてしまった可能性もあるけれども。しかし内容は2018年11月23日付(165)に引いた、やはり小学校の低学年の頃に横浜で赤マント流言を体験した評論家赤塚行雄の回想と重なっている*1。ただ、2018年11月23日付(165)にも述べたように時期が、東京と同じく昭和13年度のうちであったのか、それとも昭和14年度に入ってからなのかが、はっきりしない。
 さて、武田氏は昭和13年度に高等女学校に入学しているから、小学校の裏門や紙芝居屋と絡めたこの回想は昭和12年度以前のことのように思われる。だとすると昭和14年(1939)2月中旬に東京で大流行した赤マント流言よりも以前のこととなる。どこかに記憶違いが混ざっている可能性もあろうし、昭和14年に赤マント流言が横浜で広まった当時、武田氏がどのように接したのかも気になるところ(すなわち、殆ど意識せずに過ごしてしまったのか)だが、書かれている通りであったとすれば、これは赤マント流言以前の、その発生・流行の素地を述べたものとして位置付けられるように思われるのである。(以下続稿)

*1:「由紀夫」と「行雄」が重なっていることも少々気になるのだけれども。