瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(179)

・延吉実『司馬遼太郎とその時代』(4)
 『戦後篇』140~196頁「第4章 難波塩草」、169頁13行め~183頁7行め「3 難波塩草尋常小学校 Ⅰ」の節、赤マントについての記述の今回は後半、174頁12行めから175頁4行めまでを見て置こう。引用は2字下げで前後1行分ずつ空けてある。なお傍点「ヽ」は再現出来ないので仮に傍点を打たれている文字を太字にして示した。

 男児には絶大な人気を誇った紙芝居のヒーロー黄金バットも、剣をふりかざして悪と戦う姿が、女/児には恐ろしく感じられたのだろうか。それとも、正義の味方黄金バットを僭称する男子組の悪童ど/もが、か弱き少女らにセクハラまがいの意地悪行為に及んでいたという話かもしれない。
 筆者は便所の赤マントの話を、義母をはじめ定一と同世代の女性たちから聞いている。山中恒/『〔図説〕戦争の中の子どもたち――昭和少国民文庫コレクション』(河出書房新社、一九八九年)の次【174】の一節を読んで、が解けたような気がした。

 その頃、学校でも、便所に赤マントが出て、女の子をさらうなどという流言があった。内務/省の「特高月報」にも、流言蜚語として、これが登場する。*1
                                     (二三ページ)


 赤マントと黄金バットの関係については、当ブログでも見て来た通り複数の人によって示唆されている。当然何らかの影響を与えていただろうが、昭和14年(1939)と云う時点で赤マント流言を発生させる要因と見做し得るだけの何かインパクトのある動きがあった訳ではなさそうだ。素地となったと云うべきであろう。
 さて、延吉実(本名・藤田佳信)の義母については、104~139頁「第3章 失われた町を求めて」、104頁2行め~113頁2行め「1 赤手拭稲荷から鼬川へ」の、112頁4~7行めに、直前の子守唄の引用(111頁15行め~112頁3行め)に続いて、

 右は、大阪で古くから親しまれた子守歌である。もとは、江戸時代から伝わる木挽き歌の節回しで/歌われたとも聞く。一九九九年(平成十一年)に病没した筆者の義母菅野亮子*2(一九二二年〔大正十一年〕生まれ)は、子どものころに聴いた印象を記憶していた。この子守歌を祖母に低い声で歌われる/と、限りなく物悲しく、それゆえになんとも恐ろしい感じがするものだと、義母は話していた。

とあり、また「第4章 難波塩草」の同じ節、177頁5行めに、

 筆者の義母菅野亮子は、一九三五年(昭和十年)から四〇年まで大正区の泉尾*3女学校に通っていた。/‥‥

とある。すなわち延吉氏の義母は、大阪府立泉尾高等女学校(現・大阪府立泉尾高等学校)の5年生の昭和14年(1939)6~7月に、大阪に広まった赤マント流言に接したのだと思われる。(以下続稿)

*1:ルビ「りゅうげん・ないむ/しょう・とっこうげっぽう・ひご」。

*2:ルビ「すがのあきこ」。

*3:ルビ「いずお」。