中島京子『小さいおうち』の続き、として書き始めたのだけれども、全く登場しないままになったので標題を替えた。なお、「赤いマント」の記事は敬体で書いていたのだけれども、今回は常体で書き始めたのでそのままにして置く。
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昨日の最後でちょっと問題にした、当事者の記憶違いについては、これまで幾つも挙げてきたけれども、何も記憶違いをした人を糾弾したい訳ではない。私も随分記憶違いはあるし、近頃は人の名前が覚えられないし、思い出せない。誰でも普通に起こり得ることである。
だから、私はとにかく記憶違いを指摘して、完璧に正確なところは示せないとしても、間違いをはっきりさせて本当のところがどの辺にあるのか、くらいのことを示して置こうと思ったのである。
何故こんな間違いが発生したのか、本当のところはどうだったのか、そんな辺りを示して、――とにかく、明確な誤りは出来るだけ早く消して置くことで、特に不注意でない人物であっても(不注意な人はなおのこと)誤りにうっかり引っ掛かってしまうことが、ないようにしたいのである。
当事者の証言ということになると、原則として疑って掛かるような接し方をしない。けれども、やはり典拠とどういう条件の下にその証言がなされたか、といった情報もセットで検討しないと、それが本当に信用出来るのかどうか、疑問が生じたときに検証のしようもない。だから私はそれを示すよう努めて来たし、当人や当該文献が示していない場合、他の文献にも当たって生没年や出身校を確認したのであった。個人情報保護法などがあるにしても、背景がその辺りまで明らかになっていない証言は、安心して利用するには不安がある。こういったことは2月18日付(118)の最後にも少し述べたことがあったが、これから何か示そうという人は、特に注意して欲しいと思う。あやふやなまま提示された説明が、妙な辻褄合せを施された上で再利用され、広く誤った説を流布させるという構図の発生は、常に危惧されることなのである。
昨年秋からしばらく検討を続けてきた赤マントの流言では、2013年10月25日付(4)に挙げた加太こうじ『紙芝居昭和史』に昭和15年(1940)のことと述べてあって、これに2月19日付(119)で見た鶴見俊輔、2013年12月12日付(52)等で見た池内紀なども従い、小沢信男「わたしの赤マント」でも当初、1月14日付(84)から1月22日付(92)に掛けて初出と再録を比較して明らかにしたように、自分の記憶をねじ曲げてまで加太氏の昭和15年説と辻褄を合わせようとしていたくらいだったのが、一方では早くから批判があり、しかしながらその批判の根拠というのが、朝倉喬司の根拠となった北川幸比古が流言に接した時期が誤っているのは2013年10月24日付(3)に、また、2月5日付(105)及び2月3日付(103)等で指摘したように物集高音の批判の根拠となった三原幸久が流言に接した時期も、誤っていたという、奇妙な按配になっていたのであった。実際は2月15日付(115)に述べた通り、加太氏の紙芝居が問題になったのは昭和14年(1939)のことだったので、加太氏の記述も昭和15年に置いて考えればとんでもなく奇怪な説明としか思えなかったのだが、傍証も得た上で昭和14年に置いて眺めると、可笑しくはないのである。とにかく加太氏・北川氏・三原氏が何らかの事情で記憶違いをしてしまったのが、人に典拠として使用されることになってしまっていたのだけれども、それでは昭和14年説が全くなかったのかというと、実は2013年12月29日付(69)等に指摘した通り、既にほぼ正確な時期を指した文献が複数存在しているのだが、それらの文献が、誤った根拠で他の説を批判した朝倉氏や物集氏のように積極的に謬説を批判するという姿勢を取っておらず、そもそも赤マント自体が大真面目に扱われるようなものでもなければ大きく扱われもしないので、誤った説を駆逐するには至らずに来てしまったのだった。
それで、私は従来の謬説を何故誤ったのかその理由まで検討した上で批判し、大阪の記事が1つ紹介されているのみであった新聞報道について、多くの新聞記事を発掘して新聞記事だけで詳しい経過が辿れるところまでやって見たのだけれども、やはりそれで謬説がどうかするような雰囲気にもならない。一介のブログ記事は典拠にならないのは仕方ないとして、昭和14年(1939)ということを云うだけなら別に当ブログに言及せずとも出来ることなのだから(別に当ブログを積極的にないがしろにして欲しい訳ではないけれども)――何とか、検索してもなかなか出て来ないなりに、示し続けることによって状況の改善に繋げたい考えなのである。いや、赤マントを取り上げているブログのコメント欄に押し掛けて行ったら無下にはされるまいが、それも何だか億劫で、……それやこれやを少し落ち着いて考えるためには毎日何かしら記事を挙げるのを止めれば良いのだけれども、それではそのまま止めてしまいそうで、悪循環かも知れぬと思いながら断ち切れないのである。
そんな次第で、息も絶え絶えで過去に書いたことも忘れがちで、似たようなことはこれまでにも書いたことがあるんじゃないかと思うのだけれども、とにかくあまり積極的に、押し掛けてまで謬説と組み合おうとは思っていないが、それが(多分)間違っているであろうことをここにこうして示して置くことで、将来、何かしら修正の動きに繋がることを期待して、やっているのである。