瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(55)

 大袈裟なことを書くと草臥れてしまうので、昨日書いたことはすぐには始めません。
 しばらく、体験者の回想を引用して見ましょう。
 評論家・社会学者の加藤秀俊(1930.4.26生)は東京府豊多摩郡澁谷町出身で、昭和7年(1932)4月に澁谷町は千駄ヶ谷町・代々幡町とともに東京市澁谷區になったのですが、10月24日付(03)で見た北川幸比古(1930.10.10生)と同学年で、「赤マント」の噂が東京全市を席捲した昭和14年(1939)2月には小学2年生であったはずです。
 加藤氏の回想は、婦人公論臨時増刊(第四十四巻第四号/通巻 第五百五号)に見えています。すなわち「男性問題特集号」(昭和三十四年三月二十日発行・特価一〇〇円・中央公論社・224頁)という臨時増刊なのですが、その188〜192頁「〈二色〉」ページ*1のうち192頁、「TELEVISION」欄と左上に横組み、右上に横組みで「「赤マント」と「月光仮面」/加藤秀俊*2」とあります。本文は縦組み4段組です。冒頭から見てみましょう。

 私の子どものころ、「赤マント」/伝説というのがあった。何でも、/赤いマントを羽織った怪人が東京/市内に出没し、小学生を誘拐し/て、その生血を吸うというのであ/る。こうした話は、小学生のあい/だで耳から耳へとまことしやかに/伝播し、赤マントの実在性は疑う/余地のないものとして確信されて/いた。「黄金バット」という題の/紙芝居もあった。この主人公もま/た、マントの怪人であって、神出/鬼没、大いにわれわれの心胆を寒/からしめたものである。


 次の段落(9行)では「マントの怪人」として「スーパー・マン」と「月光仮面」を挙げています。ついで5字下げ2行取りの「☆」で区切って、

 しかし、よく考えてみると、「赤/マント」系列と「月光仮面」系列/のあいだには根本的な「マント観」/の対照がある。というのは、前者/にあっては、マントの怪人は悪人/であったのに、後者ではそれが善/人、しかも天下無敵の智慧と力量/をもった人物として描かれている/からだ。二十年まえの小学生は、/やや青ざめた面持ちで「赤マント」/の恐怖を語ったのだが、いまの小/【1段め】学生は月光仮面がマンモス・コン/グをやっつけるのを見たりする/と、このときとばかり声援を惜し/まない。マントの怪人の価値は、/過去二十年のあいだに百八十度の/転換をみせたのである。


 黄金バットは正義だと思うのですが、しかし私も父の書棚にあった昭和期の歌謡曲を回想するレコードシリーズの図版に黄金バットを見て、恐くて仕方がなかった記憶があります。もちろん世代的に、紙芝居その他で黄金バットの活躍に接する機会はありませんでした。ただ外見が厭でたまらなかったのです。「月光仮面」も資料映像のような扱いでしか見ておりません。
 それはともかく、この文章の発表された昭和34年(1959)3月のちょうど「二十年まえ」であったことが注意されます。昭和14年のこの時期であったことを知っていて「二十年まえ」としたのか、それとも偶然の一致なのでしょうか。
 これでほぼ加藤氏の「赤マント」回想はお終いなのですが、念のため、明日はこの続きの論旨を眺めて置きましょう。(以下続稿)

*1:但し私は端末で閲覧したので何色と何色の2色なのかは未確認。

*2:ルビ「かとうひでとし」。