瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(322)

朝倉喬司『毒婦伝』(3)
 昨日の見た「阿部定」の章の能美金之助『江戸ッ子百話』に依拠した箇所の、続きを見て置きましょう。282頁17行め~283頁13行め、

 定の事件の約三年後の昭和十四年ごろ、東京に、少年少女を襲って生血を吸う「赤マント」出現の/【282】噂が広がったが、この噂にも「日暮里」が介在していた。
 「最近「赤マント」という言葉が、非常な恐怖と興味をもって、人々の口から口へと伝えられた。/その分布範囲は明らかでないが、東京全市をはじめ、その接続町村から近県にまで及んだのではない/かと思われる。これはまったく何の根拠もない流言で、およそ馬鹿ばかしいナンセンスにすぎなかっ/たのであるが、一時は帝都の全市民がまるで呪文にでもかかったように、この流言に迷わされたので/ある。(中略)
 もっとも、この流言には全然根拠がなかったわけではない。日暮里辺で佝僂の不良が通行の少女に/いたずらをしたとか、大塚か池袋で変態男が安全剃刀で通行の女に切りつけたと*1いう事件が事実あっ/たそうだ」(『中央公論』昭和十四年四月号所載、大宅壮一「赤マント社会学」)
 大宅が噂の根拠として指摘しているのは、根拠などではなく、それじたいが噂の「意味あり気な部/分」に過ぎないのだが、そこにやはり「日暮里」が、ぬっと顔を出しているのである。
 そこへ女が行けば「殺される」はずの尾久で、なんと、女が男を惨殺して逃げた。いまも、その女/はこの東京のどこかを逃走している。


(中略)までの原文は2013年11月20日付(30)に引きましたが、大宅壮一「「赤マント」社会学」の書き出し、「一」章の冒頭部分です。(中略)の後は2013年11月23日付(33)に見たように「二」章の冒頭部分です。
 それはともかく、上の引用の最後の段落で話は阿部定の殺人に戻って、続く238頁14行め~287頁7行めは、この「怪美人の行方」に関する新聞報道の盛上り、東京のあちこちで、さらには名古屋や大阪にまで阿部定の目撃情報が流れて捜査当局を右往左往させた様を活写して行きます。
 そこまで引用して置くと話は分かり易くなるのですが、長くなるので割愛しました。――何が言いたいのかと云いますと、上の引用のうち「赤マント」の件(282頁17行め~283頁11行め)は『毒婦伝』に必要だったのか、と云うことなのです。(以下続稿)

*1:原文はここに「か」あり。