瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(310)

宮田登の赤マント(7)阿部定と赤マント③
 昨日は「奇しくも」だけで終わってしまいましたが、他の内容についても見て置きましょう。
 やはり気になるのは赤マント流言を「「赤マントの女」事件」と呼んでいることです。当ブログではこれまで紹介されて来なかった、当時の新聞・雑誌の記事を多数発掘して紹介して来ました。正体不明の怪人ですから種々雑多な説があった訳ですが、主流は「赤マントの佝僂男」なのです。そうでなくても男だと思われていたようで、同時代の、女性だとする説は2018年9月3日付(161)に紹介した近藤操「赤マント事件の示唆」に言及されているくらいでしょう。
 本田和子が何故「「赤マント」は女だと理解し」たのか、宮田氏はそこを暈かしていますけれども、本田氏は根拠を明示していて、それは北杜夫『楡家の人びと』なのです。『楡家の人びと』の赤マントについては、10月24日付(286)にざっと纏めて置きました。北氏は赤マント流言が広まった時期に急性腎炎で学校を長期欠席していたので、学校で児童たちが赤マント流言に怯える様子を直接目にしていないはずです。姉の体験(と云うか作り話)と云うことになっていますが、実際に姉がこのような話を北氏に聞かせてくれたものか、それとも別に聞いた話を姉のことに取り成したのか、或いはかなりの部分を作家としての想像力で補ったのか、よく分かりません。とにかく、かなり特殊な説と云うべきで、しかも後年書かれた小説ですから、全く事実に基づかない訳ではないにしても、これを基に全体を論じるのは慎重であるべきなのです。いえ、実は、追って検討しますけれども、本田氏は別に「「赤マント」は女だと理解して」はいないのです。飽くまでも『楡家の人びと』に登場する少女、楡藍子の作り話が赤マントを女としていることの意味を論じているのです。
 どうも、宮田氏には先に「都市の語り出す」女性の怪異の「物語」と云う構図が先にあったために、本田氏の評論の上っ面を読んで赤マント流言を性急に「「赤マントの女」事件」と位置付けでしまったのではないか、と思われるのです。
 ですから、その後、ちくま文庫『犯罪百話 昭和篇にて大宅壮一「「赤マント」社会学に接して、これが重要な資料であることは感得して「都市の語り出す物語」に書き入れはしましたが、「都市の語り出す」女性の怪異の「物語」の脇筋として、申し訳程度に言及するに止めてしまったらしいのです。
 いえ、「都市の語り出す物語」準備段階で、新刊のちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に接したことが、「阿部定と赤マント」と云う不思議な節を成立させたであろうことは、容易に見て取れるでしょう。宮田氏は「5 阿部定という人」の章から「6 三面記事の世界」の「「赤マント」社会学」と読み進めて、既に用意してあった本田和子「「赤マント」の行方」の前段として、阿部定事件を位置付けると云う筋を描いてしまったのです。実際のところ、この筋を通すのであれば大宅氏の評論に言及する必要は全くなかったのですが、大宅氏の評論を介して「阿部定事件」と「赤マントの女」が「奇しくも」繋がったのですから、どうしても触れざるを得ないような気分になってしまったのでしょう。
 しかし、宮田氏は〔A〕「都市の語り出す物語」では「大宅壮一「赤マント社会学」の中で」と、大宅氏の論題を明示していましたが〔B〕では「大宅壮一は」とのみで題目を示していません。かつ、現役の研究者である本田和子と並べて「「赤マント」は男であると解釈し」た、と述べたのでは、これが実は『犯罪百話 昭和篇』では末尾に「(「中央公論昭和14年4月号)」と出典が示されている、東京での赤マント流言終熄直後の評論だとは、江戸東京フォーラムの参加者も『江戸東京を読む』の読者も、分からなかったのではないでしょうか。
 『江戸東京を読む』には、宮田氏の発表に続いて12月20日付(307)に触れたように、参加者の討論も収録されていますが、そこで発言している佐藤健二(1957生)は、少し後に『流言蜚語――うわさ話を読みとく作法』と云う本を出していますが、赤マント流言には触れていなかったと思います(だから何度か借りたのですがその都度余り読まずに返却していました。年明けに改めて確認することとします)。もし、宮田氏が江戸東京フォーラムの発表で、大宅壮一「「赤マント」社会学」が新刊のちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』に収録されていること、或いはその初出が「中央公論昭和14年4月号であることをはっきり示しておれば*1、もっと早くに赤マント流言の実態は、佐藤氏によって明らかにされていたことでしょう*2。いえ、その前に、宮田氏が、流言当時の大宅壮一の評論と、約50年後に小説を基に組み立てた本田和子の評論と、どちらが信拠すべきものかを正しく査定して、大宅氏の「「赤マント」社会学」を手懸りに赤マントの実態に迫る努力をしておれば、それで済んだ話なのです。
 尤も、当時の宮田氏は多忙で、とてもそのような地道な検証を進める余裕はなかったのかも知れません。「都市の語り出す物語」にしても、予め決まっていた構図の中に、自家薬籠中の材料に加えて阿部定や赤マントと云う目新しい材料を(不用意に)流し込んだ、如何にも安易な作文であると云う印象が否めません。――それを隠蔽したいと思ってちくま文庫『犯罪百話 昭和篇』の書名を伏せた、と云っては邪推に過ぎるかも知れませんが、12月16日付(303)に取り上げた日本口承文芸学会 編『シリーズことばの世界 第3巻 はなす』所収、飯島吉晴「現代伝説」の「『赤マント』社会学―活字ジャーナリズムへの抗議」への言及が、この宮田氏の「都市の語り出す物語」に基づくとするなら、飯島氏は文庫本で読めたものをわざわざ初出誌を突き止めて、閲覧したことになります。いえ、もちろん、再録があっても初出誌を確認すべきではあるのですけれども。(以下続稿)

*1:レジュメを見ないことには確かなことは云えませんが、その後、研究者たちの間で『犯罪百話 昭和篇』が殆ど活用されていないところからしても、多分宮田氏は「「赤マント」社会学」の出典と時期を明示せずに話したもののようです。

*2:松山巌『うわさの遠近法』にも赤マントが取り上げられていません。松山氏は『乱歩と東京』では赤マントに触れているのですけれども。