瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

赤いマント(94)

物集高音「赤きマント」(2)
 1月2日付(72)の続きで、第一夜「赤きマント」で展開される赤マントについての説明を、確認して行きましょう。
 開会前に出品者の富崎ゆうと話した一丸和美は「赤マント」を出品すると聞かされて、次のように反応します。23頁上段15行め〜下段2行め、

「赤マント? あの、トイレに出る妖怪の? それ/の何? だって、あれ、噂でしょ?」
「へ〜え〜! 知ってたンだ〜?」
「うん、戦前からあるのもね。確か澁澤龍彦の『記/憶の遠近法』にも、東京中の女生徒が、赤マントに/戦々兢々としていたとか、あったと思うけど?*1


 紹介者の古本屋相見月波堂で「澁澤の初版本」を「購っ」ている「上客」と紹介されている(14頁上段11・12・14行め)一丸嬢らしい反応と言えましょう。
 澁澤龍彦『記憶の遠近法』については、複数の版を並べているので、別に記述したいと思っています。今は、同じ文章を掲載している河出文庫私の少年時代』から抜いて置くこととします。
河出文庫私の少年時代』二〇一二年五月一〇日初版印刷・二〇一二年五月二〇日初版発行・定価950円・河出書房新社・299頁

私の少年時代 (河出文庫)

私の少年時代 (河出文庫)

 私は著者の与り知らない編纂物から抜くのは極力避けたい、出来れば著者本人が示したものから抜きたい、と思っているのですが、十分調べる余裕のないときには、こういうものがなかなかに便利なので、頼って見た次第です。
 1頁(頁付なし)扉、3〜8頁(頁付なし)「目次」、9頁(頁付なし)中扉で標題、11頁(頁付なし)は「幼年時代」の扉、12〜126頁までがその本文で21篇、127頁(頁付なし)は「少年時代」の扉で128〜183頁まで13篇、185頁(頁付なし)は「楽しみあれこれ」の扉で186〜255頁に11篇、257頁(頁付なし)は「戦争の音」の扉で258〜291頁に6篇、292〜295頁「澁澤龍彦略年譜(〇―十二歳)」で末尾に(『澁澤龍彦全集 別巻2』より編集)とあります。296〜299頁に澁澤幸子「解説」。頁付があるのはここまでで299頁の裏に、

本書は、著者自身の回想エッセイを、編集部が『澁澤龍/彦全集』(小社刊)よりおおよそ編年体で並べ替えて編/集したオリジナル文庫である。       (編集部)

とあります。次いで奥付、横組みの1頁6点の目録が3頁。
 『記憶の遠近法』から採られた赤マントに触れたエッセイは「少年時代」の4番め、139〜144頁に掲載される「思い出と現在と」です。該当箇所を抜いて置きましょう。141頁4〜11行め、

 そういえば、そのころの東京には、へんなひとや、へんな事件がずいぶんあったよ/うな気がする。山手線に乗ると、日の丸の旗をもって、いつも号令をかけているおじ/さんがいた。どういうわけか、乗れば必ず会うのがふしぎであった。
 なにしろ上野動物園の黒豹が檻を破って逃げ出して、そのためにラジオの臨時ニュ/ースが流されたり、女の子の血を吸う赤マントの噂が乱れとんで、東京中の小学校の/女生徒が戦々兢々としたりしていたような時代であったことを思えば、同じ東京とは/いっても、今日のマンモス都市とは、おのずから違った面のあったことが容易に知れ/るであろう。


 初出については改めて触れますが、これもやはり口裂け女以前の執筆です。
 ちなみに黒豹の一件は昭和11年(1936)7月25日のことで、「楽しみあれこれ」の6篇め、209〜217頁「昭和十一年前後」に、214頁10〜11行め「この年に小学二年生だった私には、もうひとつ、忘れがたい思い出がある」として紹介されています。赤マントには昭和11年説もあった訳ですが、澁澤氏はこの文章では赤マントについては何とも云っておりません。当然です。
 澁澤龍彦(1928.5.8〜1987.8.5)は小沢信男より1学年下で「澁澤龍彦略年譜(〇―十二歳)」を見るに、昭和10年(1935)4月に瀧野川第七小学校に入学、昭和16年(1941)3月に卒業しています。赤マント流行の昭和14年(1939)2月には小学四年生でした。ちなみに東京都北区立滝野川第七小学校HP「たきしちの歴史」沿革の概要によると、昭和3年(1928)10月11日に滝野川第七尋常小学校として開校、澁澤氏の卒業直後の昭和16年(1941)4月に滝野川第七国民学校と改称しております。昭和19年(1944)7月に群馬県四万温泉疎開、昭和20年(1945)4月13日、戦災により校舎焼失、昭和21年(1946)3月廃校となって、現在の北区立滝野川第七小学校は昭和29年(1954)10月3日開校で、しばらくの断絶がありますが場所は同じです*2
 ちなみに、やはり『記憶の遠近法』から採られている「少年時代」の9番め、167〜169頁「お化け煙突」にも、赤マントに触れるところがあります。168頁2〜5行め、

 それでも、お化け煙突を火葬場の煙突に見立てる子供の心理には、江戸川乱歩ふう/の一種の怪奇ロマンティシズムがあったはずで、そこには何か時代精神のようなもの/さえ読みとれるような気がする。つまり、あの赤マントの伝説や、白木屋の火事や、/阿部定事件などと共通の雰囲気を、私はそこに濃厚に感じないわけにはいかないのだ。


 こちらは「赤きマント」では、会員の下間化外先生が「赤マントの噂」を回想して語るところに利用されていうようです。『赤きマント』28頁上段17行め〜下段2行め、

「あ、あれは、怖かった……儂は当時、本当に赤マ/ントがいると信じとったから……そう、あれは滝野/川第七小学校の……お化け煙突が……」
 年寄りは昔語りを始めた。とつとつと喋った。*3


 残念ながら「延々十分も語った」というその内容は、紹介されておりません。(以下続稿)

*1:ルビ「せんせんきようきよう」。

*2:2020年10月4日追記2019年11月1日付「芥川龍之介旧居跡(01)」の最後に触れたように、滝野川第七小学校はこの記事を書いて2ヶ月余り後に閉校し、HPも閲覧出来なくなってしまった。

*3:ルビ「たきのがわ・しやべ」。