・物集高音「赤きマント」(8)
なかなか見事な展開というべきなのですが、最後の最後に来て、白フリル(富崎ゆう)はここまでの議論をひっくり返してしまうのです。前回引いたところに続く、議論のまとめに当たる発言を全文抜いて置きましょう。34頁上段14行め〜下段8行め、
「もっとも、そんなのは警察のこじつけよ。けど/さ、大人って、よくこう云う事すンじゃん? 少年/犯罪があると、暴力ビデオがいけないだとか、ゲー/ムの影響だとか宣っちゃって! それがないとは云/えないけど、所詮はそんなの、作り物でしょ? ね/え〜? だったら、政治家や役人の汚職とか、企業/の不祥事とか、そっちのほうがよっぽど悪影響なン/じゃん? 現実なんだし、人間不信にも陥るし。ま/あ、兎も角さ*1、この紙芝居も、変なとばっちりで、/不良図書にされちゃったって感じ? 時代の巻き添/えを食っちゃったって感じ? 大体さあ〜、紙芝居/の大分昔から、赤マントの噂は広まってたンだから/……」
これには参会者たちも面食らいます。34頁下段9〜18行め、
それに皆が反応した。挙って口にした。*2
「大分昔って? それ、どう云う意味? だって、/作者の加太氏自身が……?」と、一丸嬢。
「ほう! それは面白い!」と、化外先生。
「ええェ〜! 赤マントってェ〜、そんなに古いも/のなんですかァ〜?」と、脇屋氏。
「いや、妾ゃ、知らないよ、そんな話」と、チヨ女/史。
「ゆうサン、それには事実の裏付けがありマスカ?/ちゃんとした根拠が示せマスカ?」と、レ博士。
主宰の叔父、図師氏は既に内容を知っていたらしく、姪に「さあ、ゆう、云いなさい、余り勿体を付けないで」と促します。
ここで白フリルは加太氏の示す時期に先行する例を2つ挙げます。この2つの例については次回検討することとしますが、1つは1月12日付(82)に引いた、塩原恒子(1925生)の報告です。(根拠不明ながら)時期について異説があることは1月13日付(83)にて触れました。
問題があるのは、35頁下段17行め「少女の援護に回った」「老先生」の発言*3です。36頁上段1〜5行め、
「どうだね、レヴィット君? 昭和十年か十一年の/長野、十二年の大阪と、こうして証拠が上がった。/紙芝居より五年から三年も前だぞ。その時、既に噂/は語られておったのだ。最早、赤マントの噂と紙芝/居は別物と認めていいのではないかな?」
この下間化外先生*4の発言によって、加太氏の紙芝居の話は、なかったことになってしまうのです。しかし、別に赤マントの噂が先行していたとして、その後再度流行した可能性だってある訳です。私とて加太氏の記述は奇怪だと思っていますが、しかし昭和15年(1940)に紙芝居を契機としたリバイバルがあったとしても、可笑しくはありません。今のところそんな事実は確認されていないのですけれども。それに、根拠の挙げ方が摘み食い過ぎるのです。小沢信男「わたしの赤マント」が赤マントの時期を「昭和十三、四年」としていたのを全く無視しているのはどういうことなのでしょうか。もちろん、赤マントの噂の淵源を探るという趣旨であるのならば、昭和10年度の証言が得られた段階で、それ以後の説を一応外して考えるのもアリでしょう。しかし紙芝居の取締について「共産主義のアカ」と絡めての熱弁を延々と読まされた上でうっちゃりを食わされては、正直、変な綱渡りに付き合わされているような気分です。せめて白フリルはちょっとぐらいフォローするべきでしょう。……ですから、気が付いたところで何か突っ込み甲斐がありそうなところだけをそれらしく突っ込んでいるだけなのではないか、著者は正直なところ、赤マントの実態を真面目に解明しようなどとは思っていないのではないか、と思えて来るのです。(以下続稿)