一昨日からの続きで、第一章9について。
正人ぼっちゃんの話が一段落付いて、時子奥様に新しい家の、新しい女中部屋が気に入ったかと聞かれて、単行本31頁9行め・文庫版35頁6行め「はい、それはもう」と答えた、そのときの自分の姿を、単行本31頁10行め・文庫版35頁7行め、
十七歳の娘だったわたしの頬には、赤みが射していたに違いない。
と、想像する。
タキは昭和10年(1935)には満18歳になるはずだから、2月はまだ誕生日を迎える前ということなのである。ちなみに「射す」は、光が「射す」場合に使うので、色は「差す」のではないのか。
第一章10には、やはり昭和10年(1935)のこととして「東京オリンピック」招致の話題が語られる。この年の「新聞の縮刷版」を見てみたが、毎月少しではあるが招致活動についての記事が出ている。差当りWikipediaの「東京オリンピック (1940年)」項の「経緯」の節を参照すれば大体の流れは分かる。それから今日(46011号)の朝日新聞夕刊4面(3版)、「あのとき/それから」という連載が「戦争に奪われた祭典」と題して、「幻の東京五輪」を取り上げている。「◆1940年東京五輪と戦争」と題する年表は「30年6月 東京市長、東京五輪招致の意/向表明」に始まり「41年12月 太平洋戦争始まる」に終わる16条であるが、8条めに「35年10月 ムソリーニ伊首相、東京開催/支持」とある。単行本33頁12行め・文庫版37頁12行め、平井の旦那様が、
「イタリアが無条件で東京支持にまわったそうだよ。‥‥
と言っているのはこれを踏まえているわけだが、この話題は、単行本33頁2〜3行め・文庫版36頁16行め〜37頁1行め、
旦那様は、たいてい、会社帰りに読んでいらした夕刊の話題などに触れ、
「次のオリンピックは東京でほとんど決まりだな」
と切り出されているから、旦那様にこう言わしめたのは「夕刊」の記事で、何新聞かは示されていないが、作者の中島氏は著者インタビューなどで「新聞の縮刷版」を参照した旨、答えているから、当時縮刷版を出していた「東京朝日新聞」を見ていけば、この記事は特定出来るはずである。……やはり縮刷版を見て、この記事くらいは見付けて、この場面がいつのことなのか、特定して見ようと思う。すぐには無理だけれども。(以下続稿)