・中村希明『怪談の心理学』(15)
本書の赤マント流言関連の記述を徹底的に検討して見る、と云う課題を私は長らく後回しにしてきたのですが、やって見てこれまで甚だ気乗りしなかった理由が分かりました。――既に嫌気が差しているので「大阪から東京」説の確認が済んだこの辺りで切り上げてしまおう、と思ったのですが、乗り掛かった船ですし、今後、他の人の説を検討する際に関連して来る可能性もありますので、関係しそうな箇所は一通り眺めて置くこととしましょう。
しかし、そのまま続ける気分にはなれないのでここで一息ついて、先に中村説の問題点について纏めて置きましょう。最後に指摘したのでは何時のことになるか分かりませんので、ただでさえ読者の少ない過疎ブログなのに、長々苦労して嫌々やった上に、誰も読んでくれなくなってしまいます(笑)。――それはともかく、やはり、中村氏の弱点は、その論証の粗さにあります。少ない資料から筋を引いて、その、思い付きに近い考えに全ての材料を流し込もうとしています。もちろん、それなりに説得力はあります。しかし、検証に堪え得るようなものではありません。
確かに、インターネットの発達した現在、検索によっていながらにして情報が蒐集出来るようになりました。参考になりそうな資料が、2014年1月5日付(075)に見たように『現代民話考』くらいしかなかった当時を、今から批判するのはどうもフェアでないような気がしてしまいます。
しかし、今でも同じ材料から似たような判断をしてしまう人がいるのを見、そして中村説及びその影響下に生み出された説明が生き残っているのを見ると、きちんと批判をして、退場願わない訳には行かないと思うのです。それこそが後学の責務でしょう、スルーしたり自分に都合の良い箇所のみ摘まみ食いするのではなく。
それでは本題に入りましょう。中村氏は『現代民話考』に自分の体験を加味して自説を組み立てています。――『現代民話考』が「学校にまつわるいっさいの怪談のたぐいをテーマ別に、その流行時期や分布地域まで詳細に記録した‥‥唯一の総合的文献」であるのは、確かにその通りなのですが、この本は「赤マントの怪談」を検討するには不適当であったと云わざるを得ません。
① 何故か昭和14年の赤マント流言に関する報告が、1例しか得られなかったこと。
② しかもその報告が、時期を「昭和11、12年頃」と誤っていたこと。
昭和14年(1939)の赤マント流言については、当ブログの過去の記事に当時の新聞・雑誌記事を多数、それから小沢信男・田辺聖子等の小説、吉行淳之介・黒田清等の回想があることを紹介して来ました。ところが何故か「現代民話考」の情報蒐集の呼び掛けには引っ掛かって来ませんでした。或いは、前回見た中村氏の見当とは違って、実際の赤マント流言は「学校のトイレに‥‥限定され」ていなかったから、『現代民話考』の「学校の怪談」募集の呼び掛けに殆ど報告がなかったのかも知れません。その貴重な(?)1例、北川幸比古の談話も、2013年10月24日付(003)に考証したように、肝腎の時期が誤っているのです。
それから、どうも奇妙なのは、中村氏が8月30日付(260)に見たように「赤マントの怪談」の時期を「昭和十一年ごろ」から「昭和二十年の体験談」としていることです。――確かに、『現代民話考』第一章「怪談」の「六、便所にまつわる怪」の「五 赤いはんてん・マント・手袋」に載る2例は、2014年1月12日付(082)及び2014年1月11日付(081)に見たように、昭和10年度と昭和20年(1945)のものです。
然るに、『現代民話考』がもう1箇所、赤マントの話を収録している、第一章「怪談」の「二十、学校の妖怪や神たち」の「七 赤マント・青いドレスの女など」には、問題の北川幸比古の談話の他に、2014年1月9日付(079)に見たように「出た」と云うだけですが、昭和50年代以降のものと思われる千葉県市川市の私立小学校の例と、昭和25年(1950)の福井県三方郡山東村(現・美浜町)の小学校の例が出ているのです。「青マント」との選択を迫るような話が存したのかは分かりませんが、両方とも「学校のトイレに‥‥限定され」た話です*1。何故中村氏はこれらの話を無視したのでしょうか。
一方で、私は敢えて赤マント流言関連の話と見做さなくても良いと思っている、昭和10年(1935)頃の松ヶ枝小学校のマントの男の話は採っていて、しかも、前回見たように「原話」扱いしているのです。――2014年1月10日付(080)の最後に述べたように、「七 赤マント・青いドレスの女など」は数が集まらなかった話を寄せ集めたような按配で「青いドレスの女」と並べてあるように「赤マント」だけを集めた項ではないと思われるのですが。
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まだまだ問題とすべき箇所はありますが、差当り今回は、赤マント流言を上手く集めることが出来ていなかった『現代民話考』に依拠したことと、それを中村氏がかなり恣意的に扱っていることを指摘するに止めて、また本文の検討に戻りたいと思います。(以下続稿)