瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

壺井栄『二十四の瞳』の文庫本(11)

・角川文庫2094(6)
 2013年1月14日付(06)に紹介した五十一版と同じ表紙の掛かった版を見たので、五十一版と比較しつつメモして置く。
・昭和五十九年九月十日五十四版発行(214頁)定価220円
 カバー表紙・背表紙・裏表紙折返しは同じ。
 カバー表紙折返しは広告が2013年3月6日付「角川文庫の「月刊小説王」の広告(1)」のに差し替えられている*1他は同じ。
 カバー裏表紙、白地で最下部に「ISBN4-04-111308-3 C0193 \220E 定価220円」とある。
 本体は扉の匡郭(11.4×7.4cm)と子持枠(4.4×4.8cm)の寸法も同じで、214頁まで一致。
 奥付の異同はそれぞれの発行日の他、住所の次の電話番号が、五十一版は(大代表)の番号が示されるのみであるが、五十四版は「電話〈編集部(〇三)二三八―八四五一/営業部(〇三)二三八―八五二一〉」となっており、最後の右が上に横転している英文は「Printed in Japan」のみとなっている。それから匡郭外に五十一版には何もなかったが、五十四版は下辺の下、右寄せでカバー裏表紙にあるのと同じISBNコードとCコードが入っている。
 最後の頁は「角川文庫発刊に際して」で目録類はない。これは双辺の匡郭の、右上にある欠損まで一致している。(以下続稿)

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 久し振りに西之島の写真が海上保安庁のHPに上がった。ブログには久しく書かなかったけれども、ここしばらく、かなりもやもやしながら眺めていたのである。
 その後、「西之島富士」と命名しようと思っていた南側火口は活動を休止して、成長した北側火口及び北側火口と南側火口の間に生じた火口が成長させた火砕丘に紛れてしまって、もう「富士」ではなくなってしまった。――この「西之島富士」が活動の中心であった時期なら、1ヶ月に1度の撮影でも良かったのである。
 8月13日付「遠藤周作『作家の日記』(1)」に貼った、3月14日に近海から撮影した西之島の噴火の動画を見るに、南側火口が夜間の様子から良く分かるように、常に火口周辺に溶岩片を飛散させる微弱なストロンボリ式噴火を継続させて円錐形の火砕丘を成長させる一方、北側火口は噴煙を伴って勢い良く溶岩片を噴き飛ばすストロンボリ式噴火を間欠的に続けており、擂鉢状の火口になだらかな火砕丘を形成していたのであった。
 久しくこの、南側・北側の2つの火口と、その西麓から溶岩流という状態が続いていた。次に、このパターンが確立された頃に撮影されたものを挙げて置こう。
・2013年12月25日撮影

 もう1つ、成長した火砕丘の様子がよりはっきり分かる動画を挙げて置く。
・2014年4月7日撮影

 しかし、その後の変化が激しすぎる。
 5月中旬に北側火口と南側火口の間に新しい火口が出来、昨年来続いていた火砕丘の西麓の湧出口からの溶岩流が停止、以後、東部に出来た湧出口などから東方に溶岩流出が続いていた*2が、7月23日観測時には北東部に溶岩の湧出口が出来て、しばらく西之島北方の岩礁との間にある浅海を埋め立てていたのだが、8月26日の観測では既に休止していて、東部にまた別の湧出口が出来ている。
 2つの火砕丘とその西麓からの溶岩流出、という安定したパターンが崩れて以後、本当にめまぐるしく、活動場所が変化している。北側火口の活動は継続しているが、擂鉢状の火口が埋まって、ついぞ耳にしたことのない「溶岩マウンド」なるものが形成されたそうだ。
 こうなって見ると、今更なんだが、西之島(旧島)に1日2回撮影する監視カメラ等を設置出来なかったのだろうか、と思うのだ。――活動状況の変化が何時のことなのか、僅かな観測点ごとのデータから筋を引くしかないが、点が少なすぎる*3
 ところで、火砕丘の周囲が溶岩流に覆われたことで、暫く海食からは守られる、と思っていた*4のだが、南側の岸の浸食が激しい。この辺りの早い時期の溶岩流は、本流の部分(流下時に黒い筋状に写っていたところ)だけが残って、砕けながら両脇に拡がってた部分が浸食され、棒状に突出したような形状になっている。
 外洋の荒波の威力をまざまざと感じる。今から100年前、標高300m、面積0.9㎢に成長しながら2年も保たずに消滅した「新硫黄島」と違って、溶岩流が主体だからなくなりはしないだろうけれども。

*1:但し、メモに拠ると寸法は4.5×5.0cmで「小型」ではない。3行の紹介文はやや縦長のゴシック体。角川文庫695『山椒大夫阿部一族高瀬舟』三十三版と比較しようと思ったのだが、先月には棚にあったはずなのだが棚に見当たらず検索してもヒットしない。除籍になったらしい。従って、並べて比較出来なかったので、どちらかが誤記の可能性もあるが、今は疑問の提示に止めて置く。

*2:東京大学地震研究所HP「2013年11月21日西之島の噴火活動」に拠ると、新しい火口が出来たのは5月12日らしい。

*3:PASCO「2013年11月 西之島 噴火活動モニタリング」は、11日ごとに撮影されているから、これが一番密な「点」ということになるのだが、2月下旬以降有償販売になってしまった。2月中旬まで無料公開だったことに感謝するとともに、その後の禁断症状(?)が如何ともしがたい。

*4:その頃、溶岩流は火砕丘の西麓からしか湧出していなかったので、火砕丘の東側がなかなか溶岩流に囲われず、このまま活動が停止したら海蝕によってじきに東側から火砕丘が崩壊してしまうのでは、とハラハラしたものだったが、1月から3月に掛けて、北から南から火砕丘を回り込むようにして、西麓からの溶岩流が東側にも拡がって事なきを得た(?)のであった。