瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(1)

 当ブログではこれまで薩南硫黄島硫黄鳥島西之島・ストロンボリ島・ヴェスヴィオ火山を取り上げて来たが、2013年8月31日付「太宰治『走れメロス』の文庫本(09)」で述べたように、私は小学4年生の頃の、2年半くらいの間、火山小僧だった。それまで調べた成果(?)の全てを書き溜めたノートを紛失するという事件のため、続ける気がなくなってしまったが、今でもTV出演者が変なことを言うと突っ込みながら見るくらいの知識はある(つもりだ)*1
 けれども、火山に行ったことは殆どない。小学2年生のとき*2に家族で富士山に登り、不調で頂上で嘔吐したのだが、嘔吐してから急に調子が良くなり、砂走りを飛ぶように駆け下りたのであった。砂の中に隠れている石で、臑が内出血だらけになったのだけれども*3。それから、小学6年生のとき*4に父と三宅島に行き、陥没前の雄山の火口原を縦断し、別の日には貸し自転車で島を一周して、今はなき新澪池も見た。池がなくなったのは、私が見てから2ヶ月と経たないうちだった。それから中学3年の夏*5に、家族で日帰りで伊豆大島に行ったが、三原山は曇っていて風が強く御神火茶屋で流している新民謡(?)の音がうるさくて、殆ど山の印象がない。これもやはり3ヶ月後に全島避難の噴火が起こって、私の歩いた遊歩道は溶岩流に埋もれたのだった。
 他に、浅間山那須岳など、中腹まで行ったけれども山頂までは行っていない。小学5年生の春休みに、家族で九州旅行をしようと計画したことがあって、火山を中心に別府や阿蘇や指宿などに行く具体的な計画も立てていたのだけれども、父に転勤の辞令が出たために立ち消えになってしまった。九州には行く機会がないままである。
 それからしばらくして、小6になっていたと思うのだけれども、TVで日本で起きた重大な事故・事件を確か100件紹介するという特集番組を見た。この番組で、今も覚えているのは2件、昭和20年(1945)11月12日の二又トンネル爆発事故の、山が吹き飛ばされた写真にもとの山の形を書き加えたものと、昭和22年(1947)8月14日12時17分の、登山者11名が死亡した浅間山の爆発的噴火で、後者は当時のニュース映画らしき白黒の映像が紹介されていた。この番組の映像は、ネットにもないらしい。ニュース映画も見当たらない。しかし、大変な衝撃であった。火山のことだから他の事件・事故よりも良く見ていたということもあろうけれども。……というのも、俯せに這い蹲るように倒れた死体が画面一杯にもろに、長くても2〜3秒だろうと思うけれども映し出されたのである。それが裸で、白黒ということもあるが驚くほど白い肌だった。まだ周囲で草が燻っていたような気もするのだが、それは記憶が捩じ曲げられているのかも知れない。初め、なぜお尻も出した裸なのだか分からなかった。しばらく考えて、灼熱の火山弾により燃えてしまったのだろう、と思い至った。人体は水分が多いから、衣服は焼け落ちても簡単に焦げたりしないのである。今のTVではとても流せない映像であろう*6
 この噴火のことは、あまりネット上に情報がない。毎日新聞社のサイト「昭和毎日」の「昭和のニュース/浅間山噴火 1947年08月14日」は「溶岩流」などと嘘を書いているが、遺体の収容作業を撮した写真(鮮明ではない)が掲出されている。恐らくこの収容作業に同行した記者により、写真やニュース映画の撮影が行われたのであろう。
 それから、今回の噴火について当初からTwitterで盛んに発言している群馬大学教育学部教授の早川由紀夫(1956.1生)のブログ「早川由紀夫の火山ブログ」の2006/09/19「岸田今日子の浅間山1947年爆発体験」は、後の女優岸田今日子(1930.4.29〜2006.12.17)の日記に記述のあることを紹介している。

ふたりの山小屋だより (文春文庫)

ふたりの山小屋だより (文春文庫)

 私が火山への興味を継続しながら、実際に現地に行って見ようという気が起こらないのは、或いはこの全裸の死体の衝撃がトラウマになっているからかも知れない、と思ったりもするのである。もちろん、その後、雲仙普賢岳の噴火もTVのニュースで見て、当日ヘリコプターから撮影した映像には灰にまぶれて白っぽい張りぼてのようになってしまった死体が何体も転がっているのが映っていた。これも、今更画像処理して流しても仕方がないから決して再び放映されることのない映像であろう。しかしあれは、いづれあそこまで流下してもおかしくない場所にいたので、私程度の知識の人間でも薄々予想出来たことだったから、衝撃はなかった。知識のある人間が制止し切れなかった、或いは、制止するよう指導させなかったことが、問題なのである。
 今回の御嶽山の噴火も、水蒸気爆発としてはそこそこの規模だけれども、噴火としてはそんなに大きなものではない。それでも、火口の近くにいたら助からない。前兆はなかったと言っている。しかし火山性地震は10日から起こっていて、継続中だったのだ。ちょうど紅葉の時季で、そこに警戒レベル引き上げなどを通告してはせっかくの観光シーズンに水を差す、と思ったとは思いたくないが、なるべく大事にしたくないと思って見合わせたのだとしたら、これを教訓にするべきだろう。不発に終わる可能性もあって、その際の損害をどうするのだ、という問題もあるが、こうなってしまってから大した予兆がなかったので、と言われても取り返しが付かない。
 地震が起こっていたのに噴火すると思わなかった、と言っているのは、とにかく予測不能だということだ。マグマの移動を伴えば分かりやすいが、水蒸気爆発はいきなり来る。何時噴火するか分からない。もう地震が頻発した段階で規制するしかないのではないか。観測には限界があり、予算にも限りがある中で、予測に力を入れるよりも少しでも危険な兆候が見えたときに何らかの規制が行えるような、それだけの権限を与えるべきだろう。昭和54年(1979)の水蒸気爆発は、今回よりもさらに規模が小さく、10月下旬だったので人的被害がなかったが、それでも山小屋の屋根に噴石で穴が空いた。今回、さらに悪い状況下に、多くの人が無防備のまま放り込まれることになってしまった。
 それから捜索隊が、硫黄臭が強いので「心肺停止」の人を確認しながら「救助」せずに下山した、というのは誤解を招くのではないか。死んでいるのである。この表現はBBCの記者も奇妙と思っているらしく、BBC NEWS Asiaの記事「Japan volcano: 30 hikers feared dead on Mt Ontake」に、

The hikers were not breathing and their hearts had stopped, reports said. Final confirmation of death in Japan always comes via a medical examination.

と断っている。最終的な死亡確認がなされていないから「心肺停止」と云っているのは、仕方がないとして、そうすると「死者」ではないから「救助」ということになってしまう。
 豊浜トンネル崩落事故の際にも、崩落した岩を一発の発破で破壊しようという案に反対が出て、結果、収容作業を遅滞させる主因*7となってしまった。「死亡」が「確認」されない限り「死者」とは呼びたくない(呼ばせたくない)という遺族の気持ちも分からないではない。だから「心肺停止」というのは、仕方がないとして、「救助」とまで云ってしまっては負傷者を放置して帰って来たみたいである。そこはもう、「収容(作業)」と云ってしまって良いのではないか。――御嶽山では、負傷者の「救助」は午前中に終わり、明日以降「心肺停止」の収容作業を続ける、と。……どうしてこの表現に引っ掛かるかというと、ニュースを見ていると良く、――「心肺停止」で「救助」された人の「死亡」が収容先の病院で「×時×分」に「確認」された、という言い方をする。しかしそれは医者が「確認」した場所と時間なのであって、実際にその人が死亡した時間がいつなのか(場所は発見された場所ということになろうけれども)、を言ってくれないことが多いのである。しかし、私たちがかかる悲劇・惨事から学ぶ際には、そこのところの情報が不可欠なのである。それが最近「死亡」の「確認」時間に偏していて、オブラートに包まれたようにぼんやりしている*8のが、どうにも、もやもやしてしまうのだ。
 ……いや、収容せずに下山したところからして「蘇生」の可能性はないと判断している訳で、可能性のある「心肺停止」と、この「心肺停止」とは、言い換えないといけないのではないのか。
 いろいろな定義やら、曖昧なこと、あやふやな知識が多い。そこからしっかりさせていかないといけない。こんなに地震が多いのに、内陸が震源の(さほど規模の大きくない)地震でも「津波の心配はありません」と馬鹿の一つ覚えのように付け足さないといけないとマスコミが思っている間は、駄目かも知れない。TVで解説役の人が喋っていることを聞いても何だか不安である。尤も、出演している火山学者の言を聞いても、何とも言い訳がましい。いろいろ明瞭でないから、そういう風に持って行く余地が残っている、そんな気もしてしまうのだ。

  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *

 時事問題は扱わないつもりだったのだけれども、ふと思い出して書いてみたら長くなった。――ニュース映画を所蔵している機関を訪ねて、閲覧しないといけないような気がして来た。

*1:9月30日追記】続きを書くことにしたので記事の題に投稿当初打っていなかった番号(1)を附した。

*2:昭和54年(1979)夏。

*3:翌年の同じ頃、山梨県側で死者12名を出す落石事故があった。

*4:昭和58年(1983)の夏。

*5:昭和61年(1986)。

*6:顔は映っていなかった。昔の報道写真を見ると、昭和22年(1947)の八高線脱線転覆事故や昭和45年(1970)の大阪天六ガス爆発事故など、顔がはっきり映っている写真が少なくない。これらも今ではあり得ない。けれども、出すのが規制されているだけで、実際にはそれぞれ顔の違う人が、巻き込まれて「ある」のである。

*7:2020年1月13日追記】「結果」としていたのを改めた。

*8:10月7日追記】下手をすると「救助」されたが「×時×分」に収容先の「病院で死亡が確認された」と言う。こうなってしまうと発見されたときに死亡していたのか、搬送中に死亡したのか、病院で死亡したのか、はっきりしない。しかし、正直「×時×分」に「病院で‥‥確認」というのは事件・事故の経過を検討する際にはどうでも良い情報=ノイズに過ぎないのである。