瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

浅間山の昭和22年噴火(07)

 昨日の続きで「朝日新聞」の記事から分かることをまとめて置きます。
 ――「分かること」と書きましたが、昨日は推測に推測を重ねたものとなってしまいました。そこで、もっと詳しい記述があれば、と思う訳です。けれども、そのようなものの存在を知らない今は、仮に推測を重ねた上で分かりそうなことを述べて置くこととします。
 さて、15日付記事の冒頭「危険の状態をつづけていた」とあります。そして「当日登山者は相当あったが、午前中に下山し残っていた」とあるのですが、これは16日付記事に見える「爆発直前下山した小諸署員」に関連するのでしょう。軽井沢測候所が火山性地震など「危険の状態」を観測していたため、登山客に下山を促すべくこの署員は登っていたのだろうと思うのです。
 もしこの推測で正しければ、この署員が「目撃した婦人をまじえた十二、三名の一行」は、署員に声を掛けられて続いて下山するうちに噴火に巻き込まれ、署員らの待つ麓に下山して来なかった――ということになりそうですが、続報はありません。そうするとどうにかして逃げ延びた、ということになりそうですが、どう行動したものだか知りたいものです。
 死体の収容状況ですが、まず14日に1人が下山後死亡、続いて15日に旧噴火口での4死体発見と、5人連れの行方不明が判明します。この5人連れの遭難は、どう行動したのか分からない、小諸署員の目撃した一行と違って、麓の少年が案内として加わっていて、その上で帰らないので確実です。
 そして19日付記事に、18日午前に総勢64名の捜索隊による7死体収容が報告されています。
 ここに、15日付記事で既に明らかにされていた栃木県足利郡の2名は含まれていません。15日から17日の間にこの2名の死体は収容されていたことになりましょう。そしてこの間に、5人連れも発見されていたのかも知れません。10月5日付(06)では、湯の平から前掛山に向かう途中での遭難と想像してみました。そうだとしてもやはり山頂近くでの遭難であり、一行に沓掛(中軽井沢)の少年が加わっているので、峰の茶屋に下ろすことになったのでしょう。いえ、もちろんこれは私の勝手な想像で、14日に生還後死亡した浅沼氏が気付かなかっただけで、旧噴火口や峰の茶屋に掛けての登山道での遭難だったのかも知れません。確かに、15日に捜索に入った埴科郡森村(後、屋代町→更埴市千曲市)の岡田氏等は「小諸口から」登っているのに気付いていないのです。……或いは、脇道になる前掛山の頂上付近であったために、浅沼氏に目撃されず、15日にも発見されなかったのかも知れません。噴火口に近付くのは危険と判断して前掛山に登ったものの、その程度の待避では間に合わなかったのでしょう。――この辺りはやはり、発見場所が分からないことには何とも言いようがないのですけれども、分からないだけにあれこれと想像ばかりを巡らしてしまいます。
 ともかくも、以上で山中での即死9名、負傷後死亡1名の合計10名となります。気象庁のHPにある「登山者9名死亡」が誤りであることは確実として、9月28日付(01)で言及した毎日新聞社のサイト「昭和毎日」の「昭和のニュース/浅間山噴火 1947年08月14日」にも、

長野、群馬両県にまたがる浅間山が大爆発、溶岩が西南部の山腹を流れ出し、10人の登山者が死亡した。

と説明されていて、死亡者は10名となっています。先に指摘したように「溶岩が‥‥流れ出し」は誤りですが「西南部の山腹」とあるのが、下田製作所一行5名の遭難場所を指しているようにも思えるのです。写真の説明には、

大爆発で死亡した登山者の遺体を収容する/地元消防団
1947年8月19日 長野・浅間山

とあります。山中で即死した9名の遺体は、「朝日新聞」19日付記事によれば18日に残っていた7遺体が峰の茶屋に搬送されているので、19日が正しければ11人めの死者の捜索を19日に行って収容したことになりそうですが、どうも、「朝日新聞」19日付記事に見える、18日の捜索のようでもあります。――私は後者の可能性、すなわち18日の捜索を撮したものと思うのですが、断定は出来ません。
 なお、「朝日新聞」46119号・2014年(平成24年)10月3日(夕刊)は全16面のうち社会面15面(4版)の右上1〜8段め「火山待避壕 進まぬ整備」の5〜8段め、小見出しは3段抜きで「被災体験後 独自に設置も」の5段めの2段落め、

 1947年の噴火で登山/者9人が死亡した浅間山。/長野県小諸市は、‥‥

とあるのですが、自社の紙面に10名死亡を報じていたことを点検していないようです。(以下続稿)