瑣事加減

2019年1月27日ダイアリーから移行。過去記事に文字化けがあります(徐々に修正中)。

岸田衿子・岸田今日子『ふたりの山小屋だより』(4)

・北軽井沢まで
 私は軽井沢などには縁なき衆生で、小学生のときに鬼押出し園に行ったときには小諸の記憶はあるのですが軽井沢は全く記憶していません。たぶん通らなかったのでしょう。それから大学の友人がその当時から交際していた女性との結婚式を、平成10年10月10日に軽井沢で挙げたので、私は横川駅まで信越本線で行き、廃線後初めて碓氷峠を、バスで越えたのでした。帰りは日が暮れていたので長野新幹線で帰りましたが。
 その、新幹線の開通に伴って信越本線碓氷峠越え区間が廃止になるというので、その前に何回か乗ったことがあります。けれども乗ったままで、軽井沢で下りることはなかったのでした。廃止の直前に乗ったときには、線路脇にカメラを構えた鉄道マニアが密集していて、恐怖を覚えました。すれすれに立っているということよりも、ここまでするのかい、と思ったからです。それで、私はカメラを持ち歩かなくても良いような気がして来たのです。――こんなに撮りまくっている人がいて、その全てを整理し切れずにそのままにして終わってしまうでしょう。私がそれに幾らか付け足したとして、仕方がない。……そんな風に思えたのです。――私の見たことは、見たままにして、私とともに滅びてしまえば良いのだ、と。
 変な話になりました。とにかく、そんな按配なのですから、北軽井沢がどこなのかも知りませんでした。
 地図を見るに、沓掛(中軽井沢)から北上する浅間越(国道146号)の峠になっているのが小浅間山の麓の「峰の茶屋」で、群馬県に入ってさらに北上すると分去茶屋を経て北軽井沢駅にて、信越本線軽井沢駅前の新軽井沢駅から出ていた草軽電気鉄道に交わっていました。沓掛駅から北軽井沢駅まで直線距離で約14km、峰の茶屋はこの間のやや南寄りにあります。
 草軽電気鉄道が存在した当時、どのようにしてこの北軽井沢まで行ったのか、この本には何箇所か記述があります。まず、10月28日付(1)に引いた岸田衿子「はじめに」冒頭の段落の次、5頁8行め〜6頁3行め、

 当時は、上野から早朝一番の信越線(黒っぽい煙を吐く汽車)に五時間乗って、碓氷/峠をアプト式(車輪をとめながら登る)にきりかえて一時間、やっと長野県の軽井沢に/つく。そこからカブトムシと呼ぶ、この世でいちばんのろい――と私たちは信じていた/ローカル線の草軽鉄道(昭和三十五年赤字のため廃線)に、二時間近く乗らなければ/「北軽井沢」駅に辿り着けない。この駅から、歩いて三、四十分、チッキといっしょに/馬車か牛車に乗せてもらえば十五分で山小屋に着く。だから朝一ばんの汽車に乗ったの/だろう。*1


 「Ⅲ 座談会」では岸田衿子は、263頁12行め「‥‥。だって信越線が六時間かかったんだから。」14行め「それで軽井沢―北軽井沢は二時間だもんね。」と発言しています。
 岸田今日子「夏休みの日記」を見ると、昭和22年(1947)「七月十三日 くもり」条に「明朝、父と私だけ先に北軽井沢へ行くのでいろいろ用意する。‥‥」とあり(145頁3〜4行め)、翌「七月十四日 晴」条に「五時に家を出て、上野から長野行きにのる。」(145頁9〜10行め)そして次の段落で汽車に乗るときのちょっとした事件について述べ、最後の段落(146頁4行め)「北軽の家の用意がしてないかもしれないので軽井沢で一晩泊って電報を打った。」とのことで、翌朝も「七月十四日 晴」条に「朝早く草軽線で北軽に向ふ。‥‥」(146頁5〜6行め)とあるばかりで、残念ながらどのくらい時間が掛かったのかは分かりません。終戦を挟んで「三年ぶりの家」(146頁9行め)でした。(以下続稿)

*1:ルビ「うすい」。